電流戦争

概要
エジソンの直流とテスラの交流が争った。エジソン側は公開の場で動物を感電させて交流の危険を示した。勝ったのは交流で、世界の送電はそれに倣う。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
ニコラ・テスラAD1856年7月10日–AD1943年1月7日 · 交流側本文
1882年9月、トーマス・エジソンはニューヨークのマンハッタン南部、パール街に発電所を開いた。蒸気機関で発電機を回し、地下に埋めた銅の線で周りの建物へ電気を送り、エジソンの白熱電球をともす。電灯を一つの発明としてではなく、発電から配線、メーター、電球までをまとめた事業として売り出したのが、エジソンの本当の新しさだった。送っていたのは、電圧が一定で流れる向きの変わらない直流である。
直流には大きな弱点があった。当時の技術では、直流の電圧を上げ下げする手段がなかった。低い電圧のまま電線で送ると、電線の抵抗で電力が熱になって失われ、1キロあまり離れただけで電灯が暗くなる。遠くまで送ろうとすれば、腕ほどもある太い銅線が要る。結局、街の区画ごとに発電所を建てるしかなかった。

これを解決したのが、向きが周期的に入れ替わる交流だった。交流なら、変圧器を使って電圧を何千ボルトにも上げ、細い電線で遠くまで送り、使う場所で安全な低い電圧に下げることができる。変圧器は、半世紀前にファラデーが示した現象(電磁誘導の発見)を使う装置である。ピッツバーグの実業家ジョージ・ウェスティングハウスはヨーロッパで生まれた変圧器の権利を買い、1886年に交流による送電を始めた。足りなかったのは、交流でうまく回るモーターだった。工場の機械を動かせなければ、電気は電灯だけの商売にとどまる。
その答えを出したのが、エジソンの会社で働いたこともあるセルビア系の技術者ニコラ・テスラである。1888年、テスラは回転する磁界を使った交流の誘導モーターの特許を取り、学会で発表した。ウェスティングハウスはすぐにその特許を買い取り、テスラを自社の工場へ招いた。

追い上げられたエジソンの側は、交流の危険を訴える宣伝に乗り出した。1888年、エジソンの会社は「警告」と題する冊子を出し、交流の高電圧で死んだ人の例を並べた。同じ年、電気技師ハロルド・ブラウンは、ニューヨークのコロンビア大学で公開の実験を行い、犬に直流を流して耐えさせたあと、交流で殺してみせた。のちには子牛や馬も使った。ブラウンの実験には、エジソンの研究所が設備と人を貸していた。
ちょうどそのころ、ニューヨーク州は絞首刑に代わる「人道的な」処刑の方法として電気を採用しようとしていた。エジソンは、確実に即死させられるのは交流だと州の委員会に勧め、ブラウンは交流を使う電気椅子の設計にかかわった。交流は人を殺す電気だ、と世間に印象づけるためである。エジソンの周りでは、電気で処刑することを「ウェスティングハウスする」と呼ぼうという声まであった。1890年8月、オーバーンの刑務所で最初の電気椅子による処刑が行われたが、一度の通電では死なず、二度目の通電で煙が上がるという無残なものになった。ウェスティングハウスは「斧を使ったほうがましだった」と言ったと伝えられる。

宣伝は、結局は技術と価格に勝てなかった。1892年、資金繰りに苦しんだエジソンの会社は別の電機会社と合併させられ、ゼネラル・エレクトリック社となり、社名からエジソンの名が消えた。新しい会社は交流にも手を広げていく。1893年、シカゴ万国博覧会の照明の契約を、ウェスティングハウスが安い入札で勝ち取り、会場を交流の電灯で埋めた。同じ年、ナイアガラの滝の水力で発電する大事業も交流の方式に決まり、1896年には40キロほど離れたバッファローの町へ電気が送られた。遠くの発電所で大量に作り、送電線で都市へ送るという、今日の電力網の形がここで決まった。
テスラは、ウェスティングハウスが経営の危機に陥ったとき、自分の特許の使用料の契約を破り捨てて会社を救った、という話が伝えられている。一回払いで特許を売り渡したことは確かだが、契約を破る劇的な場面は、のちの伝記の脚色とも言われる。テスラは晩年、ニューヨークのホテルで貧しく暮らし、1943年に死んだ。

電流戦争は、技術の争いがそのまま宣伝合戦と法廷闘争と政治にまで広がった、近代の企業競争の先駆けとして語られる。ただし勝負が一方的に終わったわけではない。電子機器の中は直流で動き、海底ケーブルなどの長距離送電では、技術の進歩で高圧の直流がむしろ有利になって使われている。日本では、東日本が50ヘルツ、西日本が60ヘルツと交流の周波数が分かれている。明治の半ば、東京がドイツから、大阪がアメリカから発電機を買ったことの名残である(コンセントが合わない)。