人物

エミー・ネーター

Emmy Noether
AD1882年3月23日 – AD1935年4月14日(享年53)
ドイツ重要度 4

概要

対称性があるところには必ず保存則があると示した。物理の土台にある定理を作りながら、女性であるために長く無給で講義していた。

関わったできごと(1)

ネーターの定理AD1918年 · 証明

本文

1882年3月23日、ドイツ南部バイエルンの大学町エアランゲンに生まれた。父マックス・ネーターはエアランゲン大学の数学の教授で、家はユダヤ系だった。少女時代のエミーは、ピアノやダンスを習う、目立たない子だったと伝えられる。近視で、少し舌足らずに話した。

エミー・ネーターの肖像
エミー・ネーターの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author Publisher: Mathematical Association of America [3] , Brooklyn Museum [4] , Agnes Scott Col · Public domain

18歳で、女子校の英語とフランス語の教員になる資格を取った。女性に開かれた数少ない道だった。だが彼女は数学を選んだ。当時のドイツの大学は、女性を正規の学生として受け入れていなかった。1900年からエアランゲン大学で、教授の許しを得て聴講生として講義に出た。千人ほどの学生のうち、女性は二人だけだった。1904年、ようやく女性の正規入学が認められると学生になり、1907年に博士号を取った。

学位を取っても、女性には大学の職が無かった。7年あまりの間、エアランゲンの数学研究所で、給料をもらわずに研究し、体の弱った父の代わりに講義を受け持った。

1916年のバイエルン州エルランゲンの様子を描いたポストカード。バイエルンはネーターの出生地。
1916年のバイエルン州エルランゲンの様子を描いたポストカード。バイエルンはネーターの出生地。Wikimedia Commons Anonymous (see Image:Erlangen - Bahnhof.jpg and Image:Erlangen - Schlossplatz.jpg ) · Public domain

1915年、ゲッティンゲン大学の数学者ヒルベルトとクラインが、彼女を招いた。ゲッティンゲンは当時、世界の数学の中心だった。ちょうどアインシュタインが一般相対性理論をまとめつつあり、ヒルベルトたちはその理論の中で、エネルギーが保存されるとはどういうことかという難問に取り組んでいた。その答えに必要な道具を持っていたのが、彼女だった。

ヒルベルトは、彼女を大学で教える資格のある講師にしようとした。だが教授会の一部が反対した。戦地から戻った兵士たちが、女性の足元で学ばなければならないと知ったら、どう思うか、と。ヒルベルトは、候補者の性別が講師への採用を拒む理由になるとは思えない、ここは大学であって浴場ではない、と言い返したと伝えられる。それでも許可は下りず、数年の間、講義はヒルベルトの名で予告され、実際には彼女が教えた。

1918年、彼女は一つの定理を証明した。物理の法則が、ある変換をしても変わらないとき、つまり対称性を持つとき、それに対応して必ず保存される量がある、という定理である(ネーターの定理)。実験をいつ行っても同じ結果になるなら、エネルギーは保存される。どこで行っても同じなら、運動量が保存される。どの向きで行っても同じなら、角運動量が保存される。それまで別々に見つかってきた保存の法則が、一つの原理から導かれることになった。この定理は、のちに素粒子の物理を組み立てる土台になる。

ネーターの定理に関わる図版:Noether theorem 1st page
ネーターの定理Wikimedia Commons Emmy Noether · Public domain

第一次世界大戦に敗れたドイツが共和国になると、女性にも道が開かれ、1919年、ようやく講師の資格を得た。それでも、給料はしばらく出なかった。後に与えられた「員外教授」の肩書きも名ばかりで、わずかな手当で暮らした。

1920年代、彼女の関心は物理から純粋な代数へ移り、そこで最大の仕事をした。数の計算を離れて、足し算と掛け算の規則だけを抜き出し、その規則を満たす集まり全体の構造を調べる。環、イデアル、加群といった概念を使って、それまでばらばらだった代数の理論を作り替えた。彼女の名を取った「ネーター環」という言葉が、いまも代数学の教科書に出てくる。

ネーターは同僚のエルンスト・フィッシャーと抽象代数学について議論するためにポストカードを使うことがあった。このカードには1915年4月10日の消印がある。
ネーターは同僚のエルンスト・フィッシャーと抽象代数学について議論するためにポストカードを使うことがあった。このカードには1915年4月10日の消印がある。Wikimedia Commons Emmy Noether · Public domain

周りには「ネーターの少年たち」と呼ばれる若い数学者たちが集まった。講義は脱線が多く、聞き取りにくいこともあったが、散歩しながら、あるいは食堂で、思いつくままに考えを分け与えた。弟子のファン・デル・ヴェルデンが彼女とアルティンの講義をもとに書いた『現代代数学』は、20世紀の代数学の教科書の手本になった。身なりにはまったく構わず、大声で笑い、議論に熱中すると周りが見えなかったという。

1933年、ナチスが政権を握ると(ナチスの政権掌握)、ユダヤ人である彼女は大学を追われた。それでもしばらくは自宅の部屋に学生を集めて教え続けた。ナチスの突撃隊の制服を着た学生が来ても、気にせず笑っていたという。

ナチスの政権掌握に関わる図版:Hitler as young man
ナチスの政権掌握Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

同じ年、アメリカの女子大学ブリンマー・カレッジに職を得て海を渡り、プリンストン高等研究所でも講義した。しかし1935年4月、腫瘍を取り除く手術を受けた数日後、合併症で急死した。53歳だった。

アインシュタインはニューヨーク・タイムズに追悼の手紙を寄せ、女性が高等教育を受けられるようになって以来、最も重要な創造的な数学の天才だったと書いた。生涯のほとんどを正規の地位も給料も無いまま過ごした数学者の定理が、いまも物理と数学の土台に置かれている。

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