できごと

嗅覚受容体

Olfactory receptor
AD1991年
重要度 4
カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国グリーンランドメキシコホンジュラスキューバグアテマラAD1991年ニューヨーク
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1991年の版図を描いています(8勢力)。

概要

リンダ・バックとリチャード・アクセルが、鼻の奥の細胞にある受容体の遺伝子の一群を見つけた。数は約千。哺乳類の全遺伝子の三パーセントがこれに充てられていた。一つの細胞は一種類の受容体だけを作り、同じ受容体を持つ細胞は脳の同じ場所へ配線される。匂いの分子は複数の受容体に、それぞれ違う強さで結びつく。その組み合わせの型が、匂いの正体である。視覚が三種類の受容体で色を作るのに対し、嗅覚は千種類の組み合わせで匂いを作る。2004年、二人はノーベル賞を受けた。

場所

ニューヨーク
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国

本文

五感のうち、視覚と聴覚の仕組みは早くから説明がついていた。網膜には三種類の錐体細胞があり、それぞれ違う波長の光によく反応する。三つの反応の比で色が決まるという三色説は十九世紀に唱えられ、その受容体の遺伝子も1986年に特定された。耳の奥の蝸牛では、場所ごとに違う高さの音が届く。どこが震えたかが、音の高さになる。

ところが嗅覚だけは、二十世紀の終わりまで謎のままだった。匂いの分子には、光の波長や音の周波数のような一列の物差しが無い。形も大きさもばらばらで、人はその中から数千とも、それよりずっと多いともいわれる種類を嗅ぎ分ける。形のよく似た分子が、まるで違う匂いになることもある。鏡に映したように左右だけが逆の二つの分子が、片方はキャラウェイの、もう片方はスペアミントの匂いになる例はよく知られていた。分子の形が鍵と鍵穴のようにはまるのだという説、分子の振動を感じ取っているのだという説などが出されたが、どれも決め手を欠いていた。

答えを見つけたのは、ニューヨークのコロンビア大学にあったリチャード・アクセル(1946年生まれ)の研究室である。そこで博士研究員をしていたリンダ・バック(1947年生まれ)が、探し方に三つの見当をつけた。匂いの受容体は、ホルモンや光の受容体と同じく、細胞膜を七回貫く「Gタンパク質共役型」の仲間だろう。しかも種類が多いはずだ。そして鼻の奥の嗅上皮、切手ほどの広さの組織にだけ働いているはずだ。この三つの条件で候補を絞り込み、当時はまだ新しかった遺伝子を増やす技術(PCR法)を使って、似た配列を持つ遺伝子をまとめて釣り上げた。

1991年、二人はネズミの遺伝子として、その一群を学術誌『セル』に発表した。論文の題は、この新しい多重遺伝子族が匂いの受容体をコードしているかもしれない、という控えめなものだった。見つかった遺伝子の数は、およそ千にのぼった。哺乳類の遺伝子全体の数パーセントにあたり、一つの遺伝子族としてはゲノムの中で最大である。免疫の抗体のように遺伝子を組み替えて多様さを生むのではなく、あらかじめ千種類を一つずつ遺伝子として持っている。進化が匂いにこれほどの投資をしていたことが、研究者を驚かせた。

数は動物によって大きく違う。ネズミでは千を超える遺伝子が働いている。人も八百ほどの遺伝子を持っているが、そのおよそ半分は壊れて働かない偽遺伝子になっており、使われているのは四百ほどである。霊長類が視覚に重きを移したことと関係があるという説がある。のちの調査では、アフリカゾウが二千ほどを持っていることが分かり、いまのところ調べられた中でもっとも多い部類に入る。

仕組みも少しずつ明らかになった。嗅覚の神経細胞は、千種類の受容体のうち、たった一種類だけを作る。残りの遺伝子は黙らせておく。どうやって一つだけを選び出しているのかは、いまも完全には解けていない。そして同じ受容体を持つ細胞は、鼻の中ではばらばらに散らばっているのに、その神経の先は脳の嗅球の中の同じ小さな場所(糸球体)へ集まってくる。脳の表面には、受容体の種類ごとに区切られた匂いの地図ができている。これを示したのも、二人のその後の仕事だった。

さらに、一つの匂い分子は複数の受容体に結びつき、一つの受容体も複数の分子に応える。結びつきの強さもそれぞれ違う。どの受容体がどれだけ反応したかという組み合わせの型が、脳にとっての匂いの正体になる。三種類の錐体で色を作る視覚に対し、嗅覚は千種類の組み合わせで匂いを作っている。受容体の数は千でも、区別できる匂いがそれよりはるかに多くなるのはこのためである。

2004年、アクセルとバックはノーベル生理学・医学賞を受けた。受賞の理由は、匂いの受容体と嗅覚の仕組みの組み立てを明らかにしたことだった。バックはこの賞を単独または共同で受けた女性として七人目にあたり、受賞のときはシアトルのフレッド・ハッチンソンがん研究センターにいた。

その後も議論は続いている。2014年、人は一兆種類以上の匂いを区別できるという論文が出て大きく報じられたが、計算の方法に強い批判が出て、いまはその数字はそのままでは受け入れられていない。かといって、以前から言われていた「一万種類」にも確かな根拠があったわけではない。分子の構造式から、それがどんな匂いになるかを予測することも、まだ十分にはできていない。計算機に大量の例を学ばせる方法で、少しずつ近づいているところである。

匂いが記憶と強く結びついていることにも、仕組みの上で説明がつく。ほかの感覚は脳の中継点である視床を通ってから大脳に届くが、嗅覚の信号は、感情に関わる扁桃体や記憶に関わる海馬のすぐそばへ、まっすぐ届く。ある匂いで不意に昔の場面がよみがえる体験は、プルーストの小説の一場面になぞらえて語られることが多い。

人は匂いを、はるか昔から扱ってきた。香を焚いて聞き分け(香道)、石鹸で洗い落とし(マルセイユ石鹸の勅令)、香水をまとい(オーデコロン)、ときには自分の体の匂いを恥じた(体臭を売る)。それが何であるかが分かったのは、その長い歴史のいちばん最後である。香道の家元は受容体を知らずに何百年も香を聞き分けてきたし、受容体を知ったいまも、香りを言葉で言い表すのは難しいままである。扱えることと、分かることは別のことだった。

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