概要
リンダ・バックとリチャード・アクセルが、鼻の奥の細胞にある受容体の遺伝子の一群を見つけた。数は約千。哺乳類の全遺伝子の三パーセントがこれに充てられていた。一つの細胞は一種類の受容体だけを作り、同じ受容体を持つ細胞は脳の同じ場所へ配線される。匂いの分子は複数の受容体に、それぞれ違う強さで結びつく。その組み合わせの型が、匂いの正体である。視覚が三種類の受容体で色を作るのに対し、嗅覚は千種類の組み合わせで匂いを作る。2004年、二人はノーベル賞を受けた。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
本文
**分からなかったこと**。
(——**視覚は、**早くから、説明が付いていた**。
〈**——**三種類の錐体細胞**。
**——**それぞれ、**違う波長に、強く反応する**。
**——**その三つの比で、**色が、決まる**。
**〈——ヤング=ヘルムホルツの三色説(19世紀)。**
**——遺伝子は、**1986年**に、特定された。〉〉**
**——**聴覚も**。
〈**——**蝸牛の、**場所ごとに、違う周波数**が、届く**。
**——**位置が、**音の高さ**である**。〉
**——**だが、**嗅覚は、**分からなかった**。
〈**(1)**匂いの分子には、**波長のような、一次元の並び**が、無い**。
**(2)**そして、**形も、大きさも、**ばらばらである**。
**(3)さらに、**人は、**数千とも、それ以上とも言われる匂い**を、区別する**。
**(4)そして、**似た形の分子が、**まったく違う匂い**になることがある**。
**〈——鏡像の関係にある二つの分子が、**片方はキャラウェイ、片方はスペアミント**、という例がある。〉〉**
**——**仮説は、**いくつも、あった**。
〈**——**分子の形が、**鍵と鍵穴のように、嵌まる**という説。
**——**分子の振動を、**感じ取る**という説。
**——**そして、**決着が、付かなかった**。〉)
**1991年**。
(——**コロンビア大学**。
〈**——**リチャード・アクセル**(1946年〜)の研究室**。
**——**そこに、**博士研究員として、**リンダ・バック**(1947年〜)がいた**。〉
**——**バックが、**立てた前提**。
〈**(1)**受容体は、**Gタンパク質共役型**であろう**。
**〈——ホルモンや、光の受容体と、**同じ族**。〉**
**(2)**そして、**多様**であろう**。
**(3)さらに、**嗅上皮**にだけ、あるはずである**。
**〈——鼻の奥の、**切手ほどの面積**の組織。〉〉**
**——**この三つで、**絞り込んだ**。
〈**——**当時、新しかった**PCR**を使う**。
**——**そして、**似た配列を持つ遺伝子の一群**を、釣り上げた**。〉
**——**論文**。
〈**——**『Cell』誌**。
**——**題は、**「A Novel Multigene Family May Encode Odorant Receptors」**。
**——**ネズミの遺伝子として、**報告された**。〉)
**数**。
(——**約千**。
〈**——**哺乳類の全遺伝子の、**およそ三パーセント**。
**——**単一の族としては、**ゲノムの中で、最大である**。〉
**——**これが、**驚かれた**。
〈**——**免疫のように、**組み替えて作る**のではなく、
**——**あらかじめ、**千種類を、全部、遺伝子として持っている**。
**——**進化が、**そこに、これほどの投資をしていた**。〉
**——**種による違い**。
〈**(1)**ネズミ**は、**約千二百**が、働いている**。
**(2)**そして、**人**は、**約四百**。
**〈——遺伝子としては、**八百ほど、持っている**。**
**——だが、**半分が、壊れている**(偽遺伝子)。**
**——霊長類が、**視覚に、重きを移した**ことと、対応するという説がある。〉**
**(3)さらに、**象**は、**約二千**。
**〈——いまのところ、調べられた中で、最も多い。〉〉)**
**仕組み**。
(**(1)**一細胞、一受容体**。
〈**——**嗅神経細胞は、**千のうち、たった一種類**だけを、作る**。
**——**残りは、**黙らせる**。
**〈——どうやって一つだけを選ぶのかは、**いまも、完全には、解けていない**。〉〉**
**(2)**そして、**同じものを持つ細胞は、**同じ場所へ、集まる**。
〈**——**嗅球**(きゅうきゅう)の、**糸球体**へ**。
**——**鼻の中では、**ばらばらに散っている**細胞が、
**——**脳では、**受容体の種類ごとに、束ねられる**。
**〈——これを示したのも、この二人の、後の仕事である。**
**——「匂いの地図」が、脳の表面に、できている。〉〉**
**(3)さらに、**組み合わせ**。
〈**——**一つの匂い分子は、**複数の受容体に、結び付く**。
**——**そして、**一つの受容体は、**複数の匂い分子に、応じる**。
**——**強さも、**それぞれ、違う**。
**——**つまり**。
**〈——「どの受容体が、どれだけ反応したか」**という、**千次元の型**。**
**——それが、匂いの正体である。〉**
**——**だから**。
**〈——受容体は千でも、**区別できる匂いは、遥かに多い**。〉〉)**
**その後**。
(**(1)**2004年**。
〈**——**バックとアクセルに、**ノーベル生理学・医学賞**。
**——**受賞理由は、**「嗅覚受容体と、嗅覚系の組織化の発見」**。〉
**(2)**そして、**バック**。
〈**——**女性として、**この賞を受けた、十人目**あたりにあたる**。
**——**受賞のとき、**フレッド・ハッチンソンがんセンター**にいた**。〉
**(3)さらに、**数の議論**。
〈**——**2014年、**「人は一兆種類の匂いを区別できる」**という論文が出た**。
**——**大きく報じられた**。
**——**そして、**統計の方法に、**強い批判が出た**。
**〈——「一兆」という数は、**いまは、支持されていない**。**
**——ただし、**従来言われていた「一万」も、根拠が薄かった**。〉〉**
**(4)そして、**残っている問い**。
〈**——**分子の構造から、**匂いを、予測できるか**。
**——**まだ、**十分にはできない**。
**——**機械学習で、**近づきつつある**。〉)
**残ること**。
(——**匂いは、**記憶と、直に、繋がっている**。
〈**——**嗅覚だけが、**視床を経由せずに**、
**——**扁桃体と、海馬**へ、届く**。
**〈——だから、**匂いで、突然、昔を思い出す**。**
**——プルーストの、あの場面が、繰り返し引かれる。〉〉**
**——**そして**。
〈**——**人は、**匂いを、長いあいだ、**扱ってきた**。
**——**焚き([[koudou]])、**洗い**([[marseille-soap]])、**纏い**([[eau-de-cologne]])、
**——**そして、**恥じた**([[deodorant-advertising]])。
**——**それが、**何であるかを知ったのは、**いちばん最後である**。〉
**——**扱えることと、**分かることは、**別である**。
〈**——**香道の家元は、**受容体を知らずに、**千年、香を聞き分けてきた**。
**——**そして、**受容体を知ったいまも、**香りを、言葉にするのは、難しいままである**。〉)