ガレノスの医学
概要
剣闘士の医者から皇帝の侍医になり、動物の解剖で体の仕組みを説いた。四体液説を体系にし、その権威は1500年続く。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
ガレノスAD129年–AD216年頃 · 皇帝の侍医本文
ガレノスは129年ごろ、小アジアのペルガモンに生まれた。父は裕福な建築家で、息子に数学と哲学を学ばせていた。16歳のとき、父が医術の神アスクレピオスのお告げの夢を見て、息子を医者にすることに決めたと、ガレノス自身が書いている。ペルガモンはアスクレピオスの大きな神殿があり、病人が集まる町だった。彼はスミルナ、コリントス、そして医学の中心地アレクサンドリアで10年あまり学んだ。
157年ごろ、故郷に戻ったガレノスは、アジア属州の大神官が抱える剣闘士の医者になった。傷を縫い、骨を接ぎ、食事と鍛錬を指図した。剣闘士の深い傷は、生きた体の中をのぞく窓でもあった。前任者の時代には大勢が死んだが、自分の任期中に死んだ剣闘士はわずかだったと誇っている。自慢の多い人で、自分の書いたものはそのまま信じられないこともある。
162年ごろ、ガレノスはローマへ出た。有力者の病を当てて治し、評判を得た。人前で動物の解剖を見せる公開の実演でも名を上げた。生きた豚の喉の神経を一本ずつ縛っていき、ある神経を縛ると豚が鳴き声を出せなくなることを示した。声が心臓ではなく脳から伸びる神経によって出されることを、目の前で見せたのである。いったんローマを離れたが、169年、皇帝マルクス・アウレリウスに呼び戻され、のちに皇子コンモドゥスの健康も任された。この頃帝国では疫病が広がっており(アントニヌスの疫病)、ガレノスはその症状を書き残している。

当時のローマでは、人の遺体を解剖することは許されていなかった。ガレノスはサル、ブタ、ウシなどを解剖し、それを人の体に当てはめた。そのため誤りが入り込んだ。ウシにある脳の底の血管の網を人にもあるとし、肝臓をいくつもの葉に分かれたものと描いた。血液は肝臓で作られ、心臓の左右を隔てる壁の目に見えない穴を通って移ると考えた。一方で、動脈には空気ではなく血液が流れていることを実験で示し、脊髄を切る高さによって麻痺する場所が変わることを確かめるなど、正しい発見も多い。
病気の理論としては、ヒポクラテス集典と医の誓いに由来する四体液説を体系にまとめた。人の体には血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つの液があり、その釣り合いが崩れると病気になる。人の気質も、どの液が多いかで決まる。治療は釣り合いを取り戻すことで、食事や運動を変え、薬を与え、多すぎる血を抜く瀉血を行った。ガレノスは、優れた医者は同時に哲学者でなければならないと説き、論理と観察を重んじた。

ガレノスは膨大な量を書いた。192年にローマの平和の神殿の一帯が焼けたとき、そこに預けていた書物や薬の多くを失ったと嘆く手紙が、2005年にギリシアの修道院の写本から見つかっている。それでも残った著作は多く、古代ギリシア語の医学書で現存するもののかなりの部分、半分ほどを占めるといわれる。死んだのは200年から216年ごろとされ、はっきりしない。
その権威は1500年近く続いた。9世紀にはバグダードでフナイン・イブン・イスハークらが著作をアラビア語に訳し(バグダードの知恵の館)、イスラーム世界の医学の土台になった。イブン・シーナーの『医学典範』もその上に立つ。のちにアラビア語からラテン語に訳され、中世ヨーロッパの大学では、ガレノスを読むことが医学を学ぶことだった。

崩したのは、人の体そのものだった。1543年、ヴェサリウスは自ら人体を解剖してヴェサリウス『ファブリカ』を出し、ガレノスの記述の多くが動物の体だったことを示した。ヴェサリウスの師の一人は、ガレノスが正しく、その後に人の体のほうが変わったのだと言い張ったと伝えられる。1628年には、ハーヴェイが血液は心臓から出て体を巡り、また戻ると示した(ハーヴェイの血液循環)。瀉血はそれでも19世紀まで行われ続けた。
ガレノスの誤りは、確かめずに受け継いだ後世の誤りでもある。彼自身は、自分の手で解剖して確かめることを何より重んじた人だった。