人物

レイチェル・カーソン

Rachel Carson
AD1907年5月27日 – AD1964年4月14日(享年56)
アメリカ合衆国重要度 5

概要

ペンシルベニアの農場。文学を志して大学に入り、生物学へ転じた。ジョンズ・ホプキンズで修士。家計を支えるため博士課程を諦め、漁業局の職員になった。ラジオ用の原稿を書く仕事から、文章の力が知られた。『われらをめぐる海』(1951年)が世界的な成功を収め、専業の著述家になった。1962年『沈黙の春』。乳癌の手術と放射線治療を受けながら、議会で証言した。刊行の2年後、56歳で死んだ。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

『沈黙の春』AD1962年 · 書いた

本文

レイチェル・ルイーズ・カーソンは1907年5月27日、ペンシルヴェニア州のアレゲニー川沿いの小さな町スプリングデールに生まれた。父は土地を売って暮らしを立てようとしたがうまくいかず、家は貧しかった。決定的だったのは母マリアである。元教師の母は、幼い娘を連れて毎日のように森や川べりを歩き、草花や鳥や虫の名を教え、書くことを励ました。10歳のとき、レイチェルが子ども向けの雑誌に投稿した話は掲載され、賞金がもらえた。

1940年、米魚類野生生物局職員時代のレイチェル・カーソン
1940年、米魚類野生生物局職員時代のレイチェル・カーソンWikimedia Commons U.S. Fish and Wildlife Service · Public domain

1925年、彼女はピッツバーグのペンシルヴェニア女子大学に入った。作家になるつもりで、英文学を専攻した。ところが2年生のとき、必修の生物学の授業で、教師メアリー・スコット・スキンカーに出会い、生き物の世界にとらえられた。彼女は専攻を生物学に変えた。当時、女性が科学で職を得るのはきわめて難しく、周りは反対した。のちに彼女は、二つの道のあいだで引き裂かれていると思っていたが、やがて生物学が書くべき題材を与えてくれるのだと気づいた、という趣旨のことを書いている。

1929年、ジョンズ・ホプキンズ大学の大学院に進み、1932年に動物学の修士号を得た。だが博士課程は続けられなかった。お金がなかったのである。1935年に父が急死し、1937年には姉が死んで、残された二人の娘を彼女と母が引き取った。彼女は一家のただ一人の稼ぎ手になった。のちに姪の一人も若くして死に、50歳の彼女はその幼い息子ロジャーを養子に迎えている。

カーソンが1929年から会員として通った海洋生物学研究所(MBL)。ここでの経験が海への愛を育んだ
カーソンが1929年から会員として通った海洋生物学研究所(MBL)。ここでの経験が海への愛を育んだWikimedia Commons Unknown. This was taken before Lillie Lab was built, so it must be before 1925. · Public domain

1936年、彼女はアメリカの漁業局に職を得た。専門職として採用された女性は、まだ二人目だった。最初の仕事は、魚と海についてのラジオ番組の原稿書きで、局内では誰もやりたがらない仕事だった。ところが彼女の原稿は見事だった。上司は、役所の冊子には文学的すぎるから雑誌に送ってみなさい、と勧めた。1937年、文芸誌『アトランティック・マンスリー』に、海の中の世界を描いた随筆が載った。作家カーソンの出発点である。

最初の本『潮風の下で』は1941年に出た。サバやウナギや渡り鳥の目から、その一生を描いた本だが、刊行の直後に真珠湾攻撃があり、ほとんど売れなかった。転機は1951年の『われらをめぐる海』だった。海の成り立ち、潮の満ち引き、生命の始まりまで、海の科学を文学として描いたこの本は、雑誌に連載されたのち単行本となって、ベストセラーの上位に1年半以上とどまり、全米図書賞を受け、30を超える言葉に訳された。翌1952年、彼女は役所をやめ、書くことで暮らしを立てるようになった。1955年には大西洋の岸辺の生き物を描いた『海辺』を出した。彼女がいちばん愛した本だとされる。

真珠湾攻撃に関わる図版:Attack on Pearl Harbor Japanese planes view
真珠湾攻撃Wikimedia Commons Imperial Japanese Navy · Public domain

1958年1月、友人のオルガ・オーウェンズ・ハキンズから手紙が届いた。マサチューセッツ州で、蚊を退治するために州が飛行機から殺虫剤DDTをまいた。DDTは第二次世界大戦中に兵士をシラミやマラリアの蚊から守る薬として大量に使われ、戦後は「奇跡の薬」として畑や町にまかれていた。彼女の小さな鳥の保護地で、鳥たちが苦しみながら死んでいた。くちばしを開き、脚を胸に引きつけて。誰か調べてくれる人を紹介してほしい、という手紙だった。カーソンは、自分で調べることにした。

それから4年、彼女は数百の論文を読み、各地の科学者と手紙を交わした。化学業界から訴えられることを見越して、どの主張にも根拠を固めた。巻末の参考文献の一覧は55ページに及んだ。そのさなかの1960年、乳がんが見つかった。手術を受けたが、医師は悪性であることをはっきり告げなかった。彼女は自分で調べて真実を知った。がんはすでに広がっていた。放射線の治療が続き、骨への転移、心臓の病、目の炎症に苦しんだ。だが彼女はそれを公にしなかった。がんの患者が感情的に書いた本だとして、主張そのものを退けられることを恐れたのである。

東海岸での調査を行うカーソンとボブ・ハインズ(1952年)
東海岸での調査を行うカーソンとボブ・ハインズ(1952年)Wikimedia Commons U.S. Fish and Wildlife Service · Public domain

1962年6月、雑誌『ニューヨーカー』に3回にわたって連載が載り、9月に単行本『沈黙の春』が出た(『沈黙の春』)。春が来ても鳥が鳴かない町を描く寓話から始まるこの本は、殺虫剤が虫だけでなく鳥や魚を殺し、食物の連鎖をたどって体にたまり、人の健康までおびやかすことを、膨大な証拠とともに示した。目に見えず、気づかないうちに体にたまる毒という語り方は、同じころ人々を不安にさせていた核実験の死の灰(第五福竜丸)とも重ねて読まれた。

化学業界は組織だって反撃した。その多くは、彼女が女性であることを狙った。ヒステリックな女、結婚もせず子もいない女がなぜ遺伝を心配するのか、自然を崇める狂信者。共産主義者ではないかとまで言われた。科学者ではなく感傷的な自然好きにすぎない、とも書かれた。彼女は修士号を持ち、長く役所で働いた海洋生物学者だった。

アルゼンチン・コルドバ・ノノのロクセン博物館にあるカーソン像
アルゼンチン・コルドバ・ノノのロクセン博物館にあるカーソン像Wikimedia Commons LFSM · CC BY 3.0

だが世論は動いた。ケネディ大統領は科学の諮問委員会に農薬の問題を調べさせ、1963年5月の報告は、彼女の主張の多くを裏づけた。翌月、彼女は上院の小委員会で証言した。病はひどく進んでいたが、誰にもそれを悟らせず、落ち着いた声で語った。人には、毒を含んだ空気や水や食べ物から守られる権利がある。自分は化学物質を一切使うなと言っているのではない。知らされず、選ぶ機会も与えられないまま、毒をまかれることに反対しているのだ、と。

1964年4月14日、カーソンはメリーランド州シルバースプリングの自宅で死んだ。56歳だった。『沈黙の春』の刊行から1年半あまりしかたっていなかった。遺灰の一部は、彼女が愛したメイン州の海岸にまかれた。

ピッツバーグのレイチェル・カーソン橋(1999年)
ピッツバーグのレイチェル・カーソン橋(1999年)Wikimedia Commons Jet Lowe · Public domain

彼女の死後、流れは変わった。1970年、全米で2000万人が参加したとされる最初のアースデイが開かれ、同じ年、アメリカに環境保護庁が生まれた。初代の長官は、この役所は彼女の本の延長線上にあると語っている。1972年、アメリカではDDTの農業での使用が禁じられた。1980年には大統領自由勲章が贈られ、メイン州の野生生物保護区は彼女の名で呼ばれている。一方で、DDTはマラリア根絶計画の柱でもあり、規制が貧しい国の病気対策を妨げたという批判もある。彼女自身は、全面的な禁止ではなく、注意深い使い方を求めていた。

『沈黙の春』は、アルベルト・シュヴァイツァーにささげられている。献辞には、人間は先を見通し、未然に防ぐ力を失ってしまった、その果てに地球を滅ぼすだろう、という趣旨の彼の言葉が引かれている。人間の作り出したものが、自然とつながった自分自身にはね返ってくる。いま当たり前になったこの見方は、海を愛した一人の書き手が、病を隠しながら書いた本から広まった。

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