できごと

ベイクウェルの品種改良

Bakewell and selective breeding
AD1760年頃
重要度 4
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国大英帝国ネーデルラント連邦共和国ポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国エジプトオーストリア帝国フランス王国スペインモロッコAlgiersイギリスアイルランド王国TunisBrandenburgヴェネツィア共和国NaplesTripolitaniaCyrenaicaプロイセンAD1760年頃ディシュリー
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1760年頃の版図を描いています(25勢力)。

概要

それまで、家畜は雄と雌を一緒に放しておくものだった。レスターシャーの農民ロバート・ベイクウェルは、雌雄を分けて飼い、目的の形質を持つものだけを掛け合わせた。近親交配も辞さない。目的は「早く太る羊」である。ニュー・レスター種は、従来の半分の期間で市場に出せた。彼は優れた種雄を売らずに貸し出し、一季節で高額の料金を取った。羊の平均重量が数十年で倍になった。ダーウィンは『種の起源』の冒頭で、この人為選択を、自然選択を説明する導入に使った。

場所

ディシュリー
52.79°N -1.21°E · イギリス・レスターシャー

関わった人(1)

ロバート・ベイクウェルAD1725年5月23日–AD1795年10月1日 · 育てた

本文

18世紀前半のイングランドの農村では、家畜は共有地(コモン)に雄と雌を一緒に放して飼うものだった。どの雄がどの雌と交わったのかは誰にも分からず、記録も残らない。家畜の形は「その土地にいるものの平均」に落ち着き、改良は偶然と、ゆっくりした淘汰に任されていた。

当時の羊は痩せていて、育つのが遅かった。羊を飼う主な目的は羊毛で、肉は副産物にすぎない。市場に出せる大きさになるまで4年ほどかかったとされる。牛は犂や荷車を引く役畜で、肉になるのは働けなくなってからだった。だから脚が長く骨太で、肉の付きが悪かった。

品種改良家ロバート・ベイクウェルの肖像
品種改良家ロバート・ベイクウェルの肖像Wikimedia Commons F. Engleheart, sc.; published by Joseph Rogerson, 12, Norfolk Street, Strand, August 1 1849. · Public domain

これを変えたのが、レスターシャーのディシュリーの借地農ロバート・ベイクウェルである。1725年に生まれ、若い頃にイングランド各地や大陸を回って、オランダの牧草地の灌漑や各地の家畜を見て歩いた。父の死とともに1760年頃に農場を継ぎ、そこから家畜の作り方そのものを変えていく。

彼のやり方は単純だが、当時としては異例だった。まず雌雄を分けて別々の囲いに入れ、交配を人が決めるようにした。次に、目的を一つに絞った。求めたのは羊毛の質でも頑健さでも繁殖力でもなく、「早く太る羊」、つまり肉が早く多く付くことである。産業革命が始まり、都市の人口が増えて安い肉の需要が伸びていた。彼は市場を見て目的を決めたのである。

ベイクウェルの品種改良による「改良リンカンシャー輓馬」(1907年以前)
ベイクウェルの品種改良による「改良リンカンシャー輓馬」(1907年以前)Wikimedia Commons Leeney, Harold.; Walsh, J. H. · Public domain

三つ目は近親交配で、親子や兄妹の掛け合わせもためらわなかった。当時、これは道徳的にも農学的にも忌まれ、近親相姦になぞらえて非難された。それでも、望む形質を固定するには近い血縁を掛け合わせるのが速い。代償として繁殖力が落ち、体質も弱くなった。彼の羊は後に、まさにその点で批判を受けることになる。

四つ目は記録と観察である。個体ごとに血統や成長、肉付きを書き留め、屠った家畜の骨格を保存した。農場には骨やアルコール漬けの標本を並べた部屋があったと伝えられる。良い個体がどんな骨格を持つのかを目で確かめるためだ。生きている家畜の背や肋、腰を手で触って肉付きを判定する見方も整えた。これらは、いまも家畜の審査で見る部位である。

こうして生まれたのがニュー・レスター種(ディシュリー・レスター)だ。胴が太く脚が短く、骨が細くて肉の割合が高い。従来の半分、2年ほどで市場に出せた。脂肪も多かったが、当時の脂肪は貴重な熱量の源で、灯火用の獣脂としても売れた。彼は牛でもロングホーン種を肉用に改良し、荷馬の改良にも手を付けている。

改良の土台には、同じ時代の農業の変化もあった。小麦、カブ、大麦、クローバーを順に作るノーフォーク式の輪作が広がり、カブが冬の飼料になった。それまでは冬に餌が足りず、秋に多くの家畜を屠って塩漬けにするしかなかった。冬を越して飼い続けられるようになって、はじめて何代にもわたって選び続ける育種が成り立つ。

成果を示す数字としてよく引かれるのが、ロンドンのスミスフィールド市場の平均重量で、1710年から1795年までに羊は約13キロから約36キロへ、牛は約170キロから約360キロへ増えたとされる。ただしこの数字には後の研究で誇張が指摘されている。大きく増えたこと自体は確かだが、それはベイクウェル一人の功績ではない。カブやクローバーといった飼料作物の導入、囲い込みによる牧草地の改良、ほかの育種家たちの仕事が重なった結果である。

囲い込みに関わる図版:Reeve and Serfs
囲い込みWikimedia Commons anonymous (Queen Mary Master) · Public domain

商売のやり方も新しかった。彼は優れた種雄を売らず、一季節ごとに料金を取って貸し出した。売ってしまえば買い手がそれを繁殖させ、独占は崩れる。貸せば血統を手放さずに、毎年収入が入る。貸出料は1760年には1季節17シリング6ペンスほどだったが、1789年には1頭で数百ギニーに達し、一頭の雄羊から1季節で1200ギニーを得たとも伝えられる。1783年には彼の羊を借りる農家の団体「ディシュリー協会」を作り、会員以外への貸し出しを絞って値を保った。品種を握り、使う権利を売るという仕組みは、現代の育種会社や種苗会社とよく似ている。

ほかにも、水路を引いて冬の牧草地に水を張り、地温を保って春の草の出を早めた。家畜を叩くことを禁じ、彼の大きな雄牛が子どもに引かれて歩くのを見て訪問者が驚いたという話も残る。ディシュリーは名所になり、国内外の地主や農学者、貴族が見学に訪れた。農学者アーサー・ヤングが訪ねて詳しく書き、その名を広めた。

彼のやり方はすぐにまねられた。北東イングランドのコリング兄弟は同じ方法でショートホーン種の牛を改良し、肉用牛の代表的な品種に育てた。ニュー・レスター種の血は、のちのボーダー・レスター種など多くの品種の土台になる。一方で、脂の多すぎる肉は、19世紀に入って暮らしが豊かになるにつれて好まれなくなり、羊毛の質が落ちたこともあって、ニュー・レスター種そのものは他の品種に主役を譲っていった。品種は、作った人の時代の市場に合わせて作られるものでもあった。

本人の暮らしは楽ではなかった。生涯独身で、訪問者を気前よくもてなし、農場への投資を続けたため、金銭的には苦しく借金を抱えた。1795年に70歳で亡くなる。彼の羊がイギリスからオーストラリアやニュージーランド、北米へ広がり、多くの品種の血に入っていくのを、本人は見ていない。

半世紀あまり後、この仕事に別の光を当てたのがチャールズ・ダーウィンである。『種の起源』(1859年)の第1章は「飼育栽培のもとでの変異」で、自然選択を論じる前に、まず人為選択から話を始めている。読者にまず、選び続ければ生き物の形は変わる、と納得させるためだ。ダーウィンは育種家の力の鍵は選択にあると書き、ベイクウェルの名を挙げて、レスター種の羊が彼の一代のうちに大きく変えられたことに触れている。彼自身も鳩の品種を集めて飼い、骨格を比べた。人が数十年でこれだけ変えられるなら、自然が途方もなく長い時間をかければどれほど変えられるか。それが議論の出発点だった。

『種の起源』に関わる図版:Origin of Species title page
『種の起源』Wikimedia Commons John Murray, Publisher · Public domain

その後、育種は血統書や品種団体、品評会によって整えられていく。1900年にメンデルのエンドウの論文の論文が再発見されると、経験と勘の技術だった育種に遺伝の法則という理屈が加わり、20世紀には統計にもとづく育種、遺伝子の目印を使った選抜、そしてゲノム編集へと進んだ。クローン羊ドリーのように、羊は先端の技術でも主役であり続けている。

一方で、極端な選択の代償も見えてきた。乳牛のホルスタインは20世紀後半に乳量が大きく増えたが、繁殖障害や脚の病気、代謝の病気も増えた。成長の速いブロイラーには体重を脚で支えきれない個体が出る。犬の品種の多くは遺伝性の病気を抱えている。目的を一つに絞り、近い血を掛け合わせて形を固める。ベイクウェルが始めたやり方の強さと危うさは、いまも家畜の体に刻まれている。

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