シュリニヴァーサ・ラマヌジャン
概要
独学で膨大な公式を書き溜め、手紙一通でケンブリッジに招かれた。証明を書かずに結論だけを出すことが多く、その多くが後に正しいと確かめられている。
関わったできごと(1)
ラマヌジャンの手紙AD1913年1月16日 · 差出人本文
1887年12月22日、南インドのタミル地方の町イーロードで、母の実家に生まれた。育ったのは聖地の町クンバコナムである。父はサリーを商う店の帳場で働く書記で、家はバラモンの身分ながら貧しかった。母は信心深い人で、一家は女神ナーマギリを篤く信仰していた。インドはインド大反乱の後、イギリス国王が直接治める大英帝国の一部になっていた。

少年は早くから数の才を見せた。学校の成績は飛び抜けてよく、上級生から借りた三角法の教科書を、12、3歳で自分のものにしてしまった。15歳の頃、図書館から借りた一冊の本が決定的な出会いになった。イギリスで受験生向けに編まれた数学の公式集で、5000ほどの定理や公式が、証明をほとんど省いて並べられていた。ラマヌジャンはここに並んだ結果を、自分の力で一つずつ確かめ、その先へ進んでいった。のちに彼が、結果だけを書いて証明を書かない癖を持ったのは、この本の形式の影響だという見方がある。
16歳で奨学金を得て地元のカレッジに入ったが、数学ばかりに打ち込んで英語などの科目を落とし、奨学金を失った。家を飛び出したこともある。マドラスのカレッジでも、数学以外の試験に通らなかった。学位の無い若者には仕事も無く、彼は家庭教師などで食いつなぎながら、ノートに式を書き続けた。紙が高価だったため、石板に書いて計算し、結果だけをノートに写したと言われる。1909年には、親が決めた9歳の少女ジャーナキと結婚した。

1910年頃から、ラマヌジャンはノートを抱えて、数学の分かる役人や学者を訪ね歩いた。何人かが才能に気づき、生活の援助をしてくれた。1912年、マドラスの港湾事務所に事務員の職を得た。上司たちも数学の好きな人々で、仕事の合間の研究を大目に見た。
1913年1月、彼はイギリスのケンブリッジ大学の数学者ハーディに手紙を書いた。インドの貧しい事務員だと名乗り、100を超える定理を、証明なしで書き連ねた。ハーディは最初、変わり者か詐欺師の手紙だと思った。だがその夜、同僚のリトルウッドと検討して考えを変えた。いくつかの式はすでに知られたもの、いくつかは誤りだったが、残りは見たこともない、しかも深いものだった。ハーディは後に、これらは正しいに違いない、正しくなければ、こんなものを思いつく想像力を持つ者などいないはずだから、と書いている。

ハーディはラマヌジャンをケンブリッジへ招こうとした。だが、正統派のバラモンにとって、海を渡ることは身分を失うことを意味した。母は反対した。やがて、女神が夢に現れて息子の渡航を許した、と母が告げ、ようやく道が開けたと伝えられる。1914年3月、ラマヌジャンはイギリスへ向けて出航した。
ケンブリッジでの5年は、驚くほど実り多いものだった。ハーディは、厳密な証明の作法を教えようとしたが、ラマヌジャンの直観をつぶさないよう気をつけた。二人の共同研究の中でもとりわけ知られるのが、分割数の公式である。ある数をいくつかの正の整数の和に分ける方法が何通りあるかを、驚くほど正確に計算できる式を見つけた。ほかにも、約数をたくさん持つ数の研究や、円周率を速く計算する式など、多くの成果を残した。1918年には王立協会の会員に選ばれ、インド人として初めてケンブリッジのトリニティ・カレッジのフェローになった。
だが体は少しずつ蝕まれていった。第一次世界大戦のさなかのイギリスは食料が乏しく、厳格な菜食を守るラマヌジャンは、手に入る野菜を自分で料理して食べるしかなかった。寒さと孤独も重なり、1917年に重い病に倒れた。当時は結核と診断されたが、のちには寄生虫による肝臓の病気だったという説も出ている。

療養所に見舞いに行ったハーディが、乗ってきたタクシーの番号は1729で、つまらない数だったと話した。ラマヌジャンはすぐに答えた。いいえ、とても面白い数です。二つの数の3乗の和として、二通りに表せる最も小さな数です。12の3乗と1の3乗、10の3乗と9の3乗の和である。ハーディの書き残したこの話から、1729は「ハーディ・ラマヌジャン数」と呼ばれるようになった。
1919年、ラマヌジャンはインドに帰った。病は重くなる一方だったが、最後まで数学をやめなかった。1920年1月にはハーディに宛てて、新しく見つけた「擬テータ関数」についての手紙を書いている。4月26日、クンバコナムで亡くなった。32歳だった。

彼が残したノートには、およそ3900の結果が書かれている。数学者たちはその後100年かけてそれを一つずつ確かめ、そのほとんどが正しく、多くはずっと先の数学を先取りしていたことが分かってきた。1976年には、ケンブリッジの図書館の箱の中から、晩年の1年に書かれた「失われたノート」が見つかった。擬テータ関数の正体が解き明かされたのは2000年代に入ってからで、いまではブラックホールの物理の研究にまで使われている。
ハーディは、数学者の才能を100点満点で採点する戯れを好み、自分に25点、リトルウッドに30点、ドイツの大数学者ヒルベルトに80点、そしてラマヌジャンに100点を付けたという。インドでは彼の誕生日の12月22日が「国民数学の日」と定められている。