できごと

インスリンの発見

The discovery of insulin
AD1922年
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコDominion of NewfoundlandキューバAD1922年トロント
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1922年の版図を描いています(8勢力)。

概要

糖尿病は、それまで死ぬ病だった。子どもは診断から1年ほどで痩せて死んだ。トロント大学で、外科医バンティングと学生ベストが、犬の膵管を縛って外分泌の組織を萎縮させ、残った膵島の抽出液を取り出した。1922年1月、14歳のレナード・トンプソンに注射した。血糖が下がった。生化学者コリップが精製法を改良し、マクラウドが研究室を貸した。特許は1ドルで大学に譲られた。「私たちのものではない。世界のものだ」。

場所

トロント
43.65°N -79.38°E · カナダ・オンタリオ州

関わった人(1)

フレデリック・バンティングAD1891年11月14日–AD1941年2月21日 · 取り出した

本文

糖尿病は、古代から知られていた。紀元前1550年ごろのエジプトの医学のパピルスには、尿が多すぎる病の記述があるとされる。インドの古い医学書は、患者の尿に蟻が集まることから、この病を「蜜の尿」と呼んだ。ギリシア語の病名は「通り抜ける」という意味で、飲んだ水がそのまま体を通り抜けていくように見えたことによる。17世紀のイギリスの医師は、患者の尿をなめて甘いことを確かめた。

なかでも子どもや若者がかかる型(いまの1型糖尿病)は、死ぬ病だった。ひどく喉が渇き、大量の尿が出て、食べても食べても痩せていく。数か月から2年ほどのうちに、血が酸性に傾いて意識を失い、死に至った。唯一の「治療」は、飢えさせることだった。食事を極端に減らせば、いくらか寿命が延びる。1日の食事を数百キロカロリーに抑えられた子どもたちは、骨と皮になり、それでも最後は死んでいった。

結晶したインスリン(NASA撮影)
結晶したインスリン(NASA撮影)Wikimedia Commons NASA/Marshall · Public domain

手がかりが見つかったのは、1889年である。ドイツのストラスブールで、オスカー・ミンコフスキーとヨーゼフ・フォン・メーリングが、犬の膵臓をすべて取り除いたところ、犬は糖尿病になった。膵臓の中に、血の糖を整える何かがある。膵臓には二つの働きがあった。消化のための液を腸へ送る働きと、何かを血の中へ出す働きである。後者を担うと考えられたのが、1869年にパウル・ランゲルハンスが見つけていた、膵臓の中に島のように散らばる細胞の集まり、ランゲルハンス島だった。

多くの研究者が、膵臓をすりつぶしてその「何か」を取り出そうとした。だが、うまくいかなかった。目的の物質はたんぱく質の一種で、膵臓が作る強い消化の液が、取り出す途中でそれを壊してしまうからである。いくらか効き目のある抽出液を作った研究者もいたが、副作用が強く、実用には届かなかった。

インスリン分子の構造モデル
インスリン分子の構造モデルWikimedia Commons Isaac Yonemoto. · CC BY 2.5

1920年10月の終わり、カナダのオンタリオ州ロンドンで、開業してもほとんど患者の来ない28歳の外科医が、翌日の大学の講義の準備をしていた。フレデリック・バンティングである。彼が読んでいた論文には、膵臓の管が石で詰まった患者では、消化の液を作る部分がしぼんでいるのに、ランゲルハンス島は残っていた、と書かれていた。真夜中、彼はノートに書きつけた。犬の膵臓の管を縛り、消化の液を作る部分がしぼむのを待って、残った島から中身を取り出す。綴りを間違えたそのメモは、いまも残っている。

バンティングは、トロント大学の生理学の教授ジョン・マクラウドに、この思いつきを持ち込んだ。糖の代謝の専門家だったマクラウドは半信半疑だったが、夏休みに空く実験室と、10匹の犬と、助手一人を貸すことにした。助手に選ばれたのは、22歳の学生チャールズ・ベストだった。もう一人の候補とどちらが先に手伝うかを硬貨を投げて決めた、という話が伝わっている。

一日の食事に伴う血糖値とインスリン濃度の変化を示す模式図
一日の食事に伴う血糖値とインスリン濃度の変化を示す模式図Wikimedia Commons Jakob Suckale, Michele Solimena · CC BY 3.0

1921年の夏、暑い実験室で二人は犬の手術を重ねた。手術の腕は粗く、多くの犬が死んだ。7月の終わり、膵臓を取り除いて糖尿病にした犬に、膵臓から取った抽出液を注射すると、血の糖が下がった。二人はその後、膵臓の管を縛る手間をかけなくても、牛の胎児の膵臓などから抽出液を取れることも見つけた。だが、抽出液は混じり物が多く、注射すると膿がたまった。冬になって、生化学者のジェームズ・コリップが加わった。彼はアルコールの濃さを少しずつ変えて有効な成分を分け、純度を大きく上げる方法を見つけた。

1922年1月11日、トロント総合病院で、14歳のレナード・トンプソンに最初の注射が打たれた。少年の体重は30キロに満たず、死が迫っていた。最初の抽出液は効き目が乏しく、注射したところが腫れただけだった。1月23日、コリップが精製した抽出液が打たれると、血の糖は大きく下がり、尿の糖もほとんど消えた。少年は回復した。彼はその後13年あまり生き、20代のうちに肺炎のために死んでいる。

市販されているインスリン製剤(アクトラピッドとノボラピッド)
市販されているインスリン製剤(アクトラピッドとノボラピッド)Wikimedia Commons Mr Hyde at Czech Wikipedia ( Original text: moje foto ) · Public domain

病院には、意識を失いかけた子どもたちが並ぶ病室があり、親たちが付き添っていた。医師たちがベッドを順に回って注射していくと、最後の子に打ち終えるころ、最初の子が目を覚まし始めた、という話が語り継がれている。細かなところには脚色もあるとされるが、死を待つだけだった子どもたちが次々と回復していった驚きは、当時の人々の証言が伝えている。この物質はインスリンと名づけられた。ラテン語で「島」を意味する言葉にちなむ。

バンティング、ベスト、コリップの3人は、インスリンの作り方の特許を、それぞれ1ドルでトロント大学に譲った。インスリンは自分のものではなく世界のものだ、とバンティングが語ったと伝えられている。大学が特許を持ったのは、誰かが独り占めしたり、粗悪な品が出回ったりするのを防ぎ、品質を守るためだった。アメリカの製薬会社イーライ・リリーが大量に作る方法を整え、1923年には北アメリカやヨーロッパで患者に届き始めた。

チャールズ・ベストとクラーク・ノーブル(1920年頃)
チャールズ・ベストとクラーク・ノーブル(1920年頃)Wikimedia Commons Use of this image is limited to personal and educational purposes. To request permission for reproduction, please contac · Public domain

同じ1923年、ノーベル医学生理学賞がバンティングとマクラウドに贈られた。バンティングは、ともに実験したベストが外されたことに激しく怒り、賞金の半分をベストに分けた。マクラウドも、自分の賞金の半分をコリップに分けた。4人の仲はその後も険しく、誰の功績がどれだけ大きかったのかをめぐる議論は、いまも続いている。バンティングは1941年、第二次世界大戦のさなか、軍の任務で乗った飛行機の事故で死んだ。

インスリンは、糖尿病を治す薬ではない。足りない分を、生きているあいだ注射で補い続ける薬である。それでも、死の宣告だった病は、付き合っていく病に変わった。その後、インスリンはイギリスのフレデリック・サンガーによって、たんぱく質として初めて、その成り立ち(アミノ酸の並び)が突き止められた。1970年代の終わりには、遺伝子の組み換え(遺伝子組み換え技術の誕生)で大腸菌に人のインスリンを作らせることに成功し、1982年から薬として使われ始めた。

エリザベス・ヒューズの血糖・食事記録表
エリザベス・ヒューズの血糖・食事記録表Wikimedia Commons Thomas Fisher Rare Book Library · CC BY 2.0

それでも、問題は残っている。100年前に1ドルで譲られた特許の後を継ぐ薬が、国によってはひどく高い。アメリカでは、薬代が払えずにインスリンを減らして使い、命を落とす人がいることが社会問題になり、2023年になって大手の製薬会社が相次いで値下げを発表した。世界のものだ、という言葉は、いまも問いとして残っている。

同じ時代のできごと

空気を調えるAD1902年7月17日テディベアAD1902年日英同盟AD1902年1月30日産婆に免許をAD1902年カルーソーの録音AD1902年イブン・サウードのリヤド奪還AD1902年1月15日同じ教科書AD1903年(明治36年)イギリスの女性参政権運動1903年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1922年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →