できごと

解剖法

Anatomy Act 1832
AD1832年8月1日
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1832年8月1日ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1832年8月1日の版図を描いています(22勢力)。

概要

イギリスでは、解剖に回してよい遺体は、処刑された殺人犯だけと定められていた。医学校は増え、処刑は減る。足りない分は、墓を掘り返す者たちが売った。1828年、エディンバラのバークとヘアは、掘るかわりに十六人を殺して解剖学者に売っていたことが露見する。議会が出した答えは、掘る動機を無くすことだった。救貧院や病院で死に、引き取り手のない者の体を、解剖に回せるようにする。墓を暴かれる恐れは消えたが、解剖台に載るのは、変わらず貧しい者だった。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

18世紀のイギリスでは、解剖は刑罰の一部だった。1752年の殺人法は、殺人で処刑された者の遺体を、鎖に吊るしてさらすか、解剖に回すかのどちらかにすると定めた。体を切り刻まれることは、死刑に上乗せされる辱めだったのである。合法的に解剖台に載せてよいのは、この処刑された殺人犯の遺体だけだった。

一方で、医学を学ぶ者は増え続けた。ロンドンとエディンバラには私立の解剖学校が次々にでき、学生は自分の手で体を開いて筋肉や血管の走り方を覚えるよう求められた。ヴェサリウス『ファブリカ』以来、解剖は医学の土台になっていた。ところが処刑の数は減っていく。学校一つで年に何十体も要るのに、法が渡すのは国全体で年に数十体にすぎない。必要な数と許された数のあいだに、大きな隙間が開いた。

その隙間を埋めたのが、「復活屋」と呼ばれた墓荒らしである。埋めたばかりの墓を夜のうちに掘り、棺の頭のほうだけを壊して、縄をかけて遺体を引き出す。経帷子や装身具は墓に戻しておく。遺体そのものは誰の持ち物でもないとされていたので、遺体を持ち去っても重い盗みの罪には問いにくい。ところが衣類を持ち出せば、それは盗みになる。復活屋たちはそれをよく知っていた。

防ぐ側も工夫した。墓の上に鉄の檻をかぶせる。墓地に見張り小屋を建て、遺族が交代で寝ずの番をする。遺体が傷んで解剖に使えなくなるまで、数週間持ちこたえればよい。しかし檻も見張りも金が要る。結局、掘られやすいのは貧しい者の墓だった。

1828年、エディンバラで事件が明るみに出た。下宿屋を営んでいたウィリアム・ヘアと、そこに住むウィリアム・バークである。きっかけは、下宿人の老人が病気で死んだことだった。その遺体を解剖学者のもとへ持ち込むと、金になった。二人はそこから、掘る手間を省いた。貧しい宿泊客や通りがかりの者に酒を飲ませ、胸に乗って口と鼻を塞ぐ。傷が残らない。こうして十六人が殺され、遺体は解剖学の講師ロバート・ノックスに売られた。あまりに新しい遺体が次々に届くのを、買う側は問わなかった。

最後の犠牲者の遺体が別の宿泊客に見つかり、二人は捕まった。証拠の乏しさに困った検察は、ヘアに仲間に不利な証言をさせる代わりに罪を問わないことにした。バークは1829年1月に絞首刑となり、遺体は公開の場で解剖された。皮肉にも、彼は法が定めたとおりの方法で解剖台に載ったのである。その骨格は、いまもエディンバラ大学に保管されている。ノックスは罪に問われなかったが、群衆に家を囲まれ、評判を失った。1831年にはロンドンでも、少年を殺して解剖学校に売ろうとした者たちが捕まった。

議会が出した答えは、取り締まりを強めることではなかった。掘る理由そのものを消す。合法の供給を増やせば、墓を荒らしても割に合わなくなる。1832年8月1日に成立した解剖法は、救貧院や病院や監獄で死に、引き取り手のない遺体を解剖に回してよいと定めた。解剖する者には免許を求め、監督の役人を置いた。本人が生前に拒んでいたか、近親者が反対すれば回さない。同時に、殺人犯の遺体を罰として解剖する定めは廃された。解剖は、罰ではなくなった。

この法の後押しをした一人に、哲学者のジェレミー・ベンサムがいる。彼は解剖の必要を説き、法の成立の二か月ほど前に死ぬと、遺言に従って自分の遺体を友人の医師に解剖させた。その骨格に服を着せた姿は、いまもロンドン大学に置かれている。

墓は掘られなくなった。しかし代わりに起きたことがある。解剖台に載るのは、救貧院で死んだ者になった。引き取り手がないとは、多くの場合、葬式を出す金がないということである。貧しい人々は、救貧院をそれまで以上に恐れるようになった。そこで死ねば刻まれる。葬式の費用を少しずつ積み立てる互助の組合が、労働者のあいだに広まっていった。歴史家ルース・リチャードソンは、この法を、罪人に科していた罰を貧しさそのものに移し替えたものだと論じている。

ボローニャで人前の解剖が始まってから(人前で、体を開く)五百年あまり、解剖される者とされない者の線は、同じような場所に引かれ続けた。罪人から貧民へ移っただけである。いま、多くの国で解剖に使われる体は、本人が生前に自分で献体を決めたものである。「引き取り手がないから」ではなく「本人がそう書いたから」へと変わるまでに、さらに百年以上かかった。

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