笑気ガスの見世物
概要
ハンフリー・デーヴィが亜酸化窒素を吸って記録を残した。頭が軽くなり、笑いが止まらない。そして彼はこう書き添えた。この気体は痛みを消すので、外科手術に使えるかもしれない、と。誰も読まなかったわけではない。だが四十年以上、それは実行されなかった。代わりに広まったのは、巡回の興行である。木戸銭を取って客に吸わせ、ふらつく様を見せる。痛みを消せる気体が、笑うための見世物として、半世紀のあいだ使われ続けた。
場所
51.45°N -2.59°E · イギリス・イングランド
本文
1799年、イングランド西部の港町ブリストルで、医師トマス・ベドーズが「気体医学研究所」を開いた。18世紀の後半には酸素や水素など新しい気体が次々に見つかっていた(燃焼と酸素)。それを病人に吸わせれば、結核のような治らない病に効くものがあるかもしれない。いまから見れば突飛だが、当時としてはまともな見込みだった。
その研究所に、20歳の助手がいた。ハンフリー・デーヴィ(1778〜1829年)である。コーンウォールのペンザンスで外科医兼薬剤師の徒弟をしながら、独学で化学を身につけた若者だった。

デーヴィが取り組んだ気体の一つが亜酸化窒素、いまの一酸化二窒素である。1772年にプリーストリーが作っていたが、当時は危険な気体だと考えられていた。アメリカの医師サミュエル・レイサム・ミッチルは、これこそが伝染病を広める物質だとまで論じていた。
デーヴィは、それを自分で吸った。理屈で議論するより、試したのである。そして死ななかった。彼は吸ったときの感覚を細かく書き留めている。顔が熱くなり、指先がしびれ、やがて笑いが止まらなくなる。思わず跳ね回り、部屋中を歩き回ったという。目や耳が鋭くなったように感じ、考えが目まぐるしい速さで流れていく。デーヴィは友人たちにも吸わせた。詩人のロバート・サウジーやサミュエル・テイラー・コールリッジも吸って、その感想を残している。
1800年、デーヴィは実験の記録を一冊の本にまとめた。『亜酸化窒素に関する研究』という500ページを超える分厚い本で、自分の体を使った実験が克明に記されている。その中に、次のような趣旨の一文がある。亜酸化窒素は広く体に作用して肉体の痛みを消すように思われるので、大きな出血を伴わない外科手術に役立つかもしれない。
必要な観察は、ここに書かれていた。それなのに、それから46年のあいだ、この気体を手術に使った者はいなかった。
理由はいくつか考えられる。まず外科医の側に、手術とは痛いものだという前提があった。麻酔の無い時代、外科医の腕とは速さのことだった。ロンドンの外科医ロバート・リストンは、脚の切断を2分半ほどで終えたと言われる。患者が痛む時間を少しでも短くするためである。痛みそのものを消すという発想は、そもそも外科の外にあった。
次に、痛みには意味があるとも考えられていた。痛みは体を目覚めさせておくもので、痛みを感じなくなった患者は弱って死ぬ、と信じる医者が少なくなかった。
そして、デーヴィ自身が先へ進まなかった。翌1801年、彼はロンドンの王立研究所へ移り、関心は電気化学へ向かう。電池でカリウムやナトリウム、カルシウムを次々に取り出し、のちには炭鉱の安全灯も作った。気体医学研究所での仕事は、若い頃の一冊として置いていかれた。デーヴィの本は化学者には読まれたが、手術室に立つ外科医の手には届かなかった。
その代わりに広まったのが、見世物である。巡回の講師が「化学の講義」と称して町の集会所を借り、木戸銭を取って客を集める。客席から志願者を壇上に上げて気体を吸わせると、ふらつき、笑い出し、歌い出し、ときには殴りかかる者もいる。客はそれを見て大笑いした。「笑気」という呼び名は、こうした興行の中で広まった。イギリスでもアメリカでも人気を集め、エーテルでも同じことが行われた。若者や医学生が集まってエーテルを吸い騒ぐ「エーテル遊び」もあった。
つまり、のちに麻酔になる二つの物質は、どちらもとうに世に出ていて、人々はそれを娯楽として吸っていた。痛みが消えることも、その場で何度も目撃されていた。吸った者が転んでも痛がらない。すねから血を流していても気づかない。それでも、それを手術に結びつける者はなかなか現れなかった。
気づいた一人が、アメリカ東部コネティカット州ハートフォードの歯科医ホーレス・ウェルズである。1844年12月10日、ウェルズは興行師ガードナー・コルトンの笑気の見世物を見に行った。気体を吸った男がベンチにすねを強く打ちつけ、血を流しているのに、本人は痛みを感じていない様子だった。翌日、ウェルズは自分で笑気を吸い、同業の歯科医に親知らずを抜かせた。目を覚ました彼は、ピンで刺されたほどにも感じなかったと言ったと伝えられる。
ウェルズはこれを世に示そうとした。1845年の初め、ボストンの病院で公開の実験を行ったが、気体の量が足りなかったのか、患者がうめき声を上げた。見ていた医学生たちから「いんちきだ」と野次が飛び、ウェルズは面目を失った。その後の彼は不遇で、1848年に自ら命を絶っている。ほかにも、ジョージア州の医師クロフォード・ロングが1842年からエーテルを使って手術をしていたが、長く公表しなかった。
ウェルズの失敗から1年あまり後の1846年、ボストンの同じ病院でエーテル麻酔の公開手術が成功する(エーテル麻酔の公開)。それを行ったウィリアム・モートンは、ウェルズのかつての共同経営者だった。今度は手術室の外科医が、目の前で痛みが消えるのを見た。

知識はあった。本に書かれ、現象は街角で繰り返し目撃されていた。それでも46年かかった。足りなかったのは答えではなく、問いのほうだった。痛みは消してよいものなのか、消すべきものなのか。その問いが立っていなかったから、答えが目の前にあっても見えなかったのである。
問いが立ってからは早かった。エーテルとクロロホルムによる麻酔は10年ほどで世界中に広まり、ヴィクトリア女王の出産(女王の無痛分娩)が、残っていた反対の声も鎮めていく。笑気も見世物から医療へ戻った。かつての興行師コルトン自身が、のちに歯の治療に笑気を使う歯科を開き、多くの患者に吸わせている。一酸化二窒素はいまも、歯科や出産の場で痛みを和らげるのに使われている。