概要
石鹸製造業者の子。20歳でセントヘレナへ行って南天の星図(341)。ニュートンを訪ねて「楕円軌道になるか」と聞き、ニュートンが「計算した」と答えて、『プリンキピア』を書かせ、出版費を出した。貿易風の地図、磁気偏角の海図、生命表(保険の元)、ダイビング・ベル、彗星。王室天文官(1720年、63歳から)。85歳、ワインを一杯飲んで、椅子で死んだ。
関わったできごと(2)
『プリンキピア』AD1687年 · 出版費を出したハレーの彗星の予言AD1705年 · 予言した本文
1656年11月8日(旧暦10月29日)、ロンドンのハガーストン。父は石鹸製造業者(大火とペストで儲けた)。セント・ポール・スクール。オックスフォード、クイーンズ(1673年)。20歳、学位を取る前に、東インド会社の船でセントヘレナ島へ。南天の星表。1年(雲が多かった)。341の星。水星の太陽面通過。「南のティコ」(フラムスティードが呼んだ。後で仲が悪くなった)。1678年、王立協会(22歳)。1679年、ダンツィヒのヘヴェリウス(望遠鏡なしの観測の正確さを確かめに)。1680〜81年、パリ(大彗星。カッシーニと)。
1684年8月、ケンブリッジ。ハレーとフックとレンは、コーヒーハウスで、惑星の楕円軌道が逆二乗の力から出るか、話していた。誰も証明できなかった。ハレーはニュートンを訪ねた。「太陽への引力が距離の二乗に反比例するとき、惑星の軌道はどんな曲線になるか」「楕円」「どうして分かる」「計算した」。紙が見つからなかった。11月、ニュートンが9ページの『運動について』を送った。ハレーは「もっと」と言った。ニュートンは18か月、書いた。『プリンキピア』。王立協会は金がなく(『魚の歴史』で使い果たしていた)、ハレーが自分の金で印刷した。校正、図、フックとの争いの仲裁(フックが「逆二乗は私の考えだ」と言い、ニュートンが第3巻を出さないと言った)。1687年7月。ハレーは王立協会から給料の代わりに『魚の歴史』を50部もらった。
1686年、貿易風とモンスーンの地図(気象の最初の地図)。1693年、ブレスラウの生命表(「年齢ごとの死亡率」。生命保険の元)。1698〜1700年、パラモア号の艦長(海軍の軍艦を、天文学者が指揮した)。大西洋の磁気偏角の海図(等偏角線)。1701年。ダイビング・ベル(テムズで、1691年。1時間半潜った)。1705年、彗星。1716年、金星の太陽面通過で太陽までの距離を測る方法(1761年と1769年に、クックがタヒチへ行った理由)。1718年、恒星の固有運動(シリウス、アルクトゥルス、アルデバランがプトレマイオスの位置から動いている)。
1691年、オックスフォードのサヴィル天文学教授の職を、「無神論者」の疑い(地球の年齢を聖書より長いと考えた)で、得られなかった(1704年に幾何学の教授に)。1698年、ピョートル大帝がデトフォードでイギリスの造船を学んでいたとき、ハレーが夕食を共にして、天文学を話した(と伝える)。1720年、63歳で王室天文官(フラムスティードの後。フラムスティードの未亡人が機器を持ち去って、ハレーは買い直した)。グリニッジで、月の18年の周期(サロス)を観測し切るつもりで、21年、観測した。
1742年1月25日(旧暦14日)、グリニッジ。85歳。ワインを一杯、頼んで、飲んで、椅子で死んだ。リーの教会。
「ハレー彗星」。1758年。彼の予言が当たったことを、彼は見なかった。「後世の人は、これを最初に発見したのがイギリス人だったことを認めるだろう」。