エドモンド・ハレー
概要
石鹸製造業者の子。20歳でセントヘレナへ行って南天の星図(341)。ニュートンを訪ねて「楕円軌道になるか」と聞き、ニュートンが「計算した」と答えて、『プリンキピア』を書かせ、出版費を出した。貿易風の地図、磁気偏角の海図、生命表(保険の元)、ダイビング・ベル、彗星。王室天文官(1720年、63歳から)。85歳、ワインを一杯飲んで、椅子で死んだ。
関わったできごと(2)
『プリンキピア』AD1687年 · 出版費を出したハレーの彗星の予言AD1705年 · 予言した本文
エドモンド・ハレーは1656年11月8日、ロンドン近郊のハガーストンで生まれた。父は石鹸の製造と販売で財をなした商人で、息子に高価な天文機器を買い与えることができた。セント・ポール校で学び、1673年にオックスフォードのクイーンズ・カレッジへ入った。在学中から王室天文官フラムスティードの観測を手伝い、天文学者として頭角を現した。

20歳のとき、彼は学位を取らずに大学を離れた。北半球の空はグリニッジやヨーロッパ各地の天文台が測っていたが、南の空の正確な星表は無かった。ハレーは父の資金と国王チャールズ2世の推薦状を得て、東インド会社の船で大西洋の孤島セントヘレナへ渡った。島は雲が多く観測は思うように進まなかったが、1年あまりで南天の星341個の位置を測り、帰国後の1678年に星表として出版した。望遠鏡を使って南天を体系的に測った最初の星表で、フラムスティードは彼を「南天のティコ」と呼んだ。同じ年、22歳で王立協会の会員に選ばれた。
ハレーの名を科学史に刻んだのは、自分の発見より、他人の仕事を世に出したことだった。1684年、ロンドンのコーヒーハウスで、ハレー、ロバート・フック、クリストファー・レンの3人は、太陽からの引力が距離の二乗に反比例するなら惑星の軌道はどうなるか、を論じていた。誰も証明できなかった。8月、ハレーはケンブリッジにアイザック・ニュートンを訪ね、同じ問いを投げた。ニュートンは即座に「楕円だ」と答え、なぜ分かるのかと聞かれると「計算したことがある」と言った。その場では計算の紙が見つからず、後で送ると約束した。11月に届いた短い論文に驚いたハレーは、もっと書くよう励まし続けた。ニュートンが1年半かけて書き上げたのが『プリンキピア』である。

刊行までの面倒も、ハレーが引き受けた。王立協会は直前に魚類の図鑑を出して資金が尽きていたため、ハレーが自分の金で印刷費を負担し、原稿を読み、図版を整え、校正をした。途中、フックが逆二乗の法則は自分の発想だと言い出し、怒ったニュートンが第3巻を出さないと言い出すと、ハレーは両者の間に入ってなだめた。1687年に本が出た。書記として働いていた協会から、彼は給料の代わりに売れ残った魚類図鑑の現物を受け取った、という話が伝わっている。
彼自身の仕事も驚くほど幅が広い。1686年、貿易風とモンスーンの分布を示す地図を発表した。風の流れを地図に描いた早い例である。1693年には、ポーランドのブレスラウの出生と死亡の記録から、年齢ごとの生存の割合を計算した表を作った。年金や生命保険の掛け金を数学的に決める道を開いた仕事で、のちの保険数学の出発点の一つとされる。改良した潜水鐘で自らテムズ川に潜った。1698年からは海軍の小型艦パラモア号の艦長となり、大西洋を南北に航海して方位磁針の偏りを測り、偏りの等しい点を線で結んだ海図を1701年に出した。科学者が軍艦を指揮するのは異例だった。

1705年、彼は過去の彗星の記録を集めて軌道を計算した論文を出した。1531年、1607年、1682年に現れた彗星の軌道がよく似ていることに気づき、これらは同じ彗星が約76年ごとに戻ってきたものだと考えた。そして次は1758年に現れると予言した(ハレーの彗星の予言)。ほかにも、金星が太陽の前を横切る現象を世界各地で同時に観測すれば太陽までの距離が測れると提案し、これが1761年と1769年の国際観測、とりわけジェームズ・クックのタヒチ行きにつながった。1718年には、シリウスなどの明るい星が古代ギリシアの記録の位置から動いていることを指摘し、恒星が天球に固定されていないことを示した。
順風の経歴ではなかった。1691年、オックスフォードの天文学教授職に応募したが、宗教的に正統でないとの評判が災いして選ばれなかった。地球は聖書から読み取れるよりずっと古いと考えていたためと言われる。1704年に同じ大学の幾何学教授となり、1720年、63歳でフラムスティードの後を継いで王室天文官になった。前任者の遺族が観測機器を自分たちの物として持ち去っていたため、グリニッジの天文台は空に近く、彼は機器をそろえ直すところから始めた。月の運行がほぼ18年で一巡りすることから、その周期を通して観測すれば航海で経度を知る手がかりになると考え、老齢を押して観測を続けた。

1742年1月25日、ハレーはグリニッジで死んだ。85歳。一杯のワインを頼み、それを飲んで椅子に座ったまま息を引き取った、と伝えられる。彗星が予言どおり戻ってきたのは、それから16年後の1758年のクリスマスの夜だった。発見したのはドイツの農夫で天文愛好家のパリッチュである。彗星はハレーの名で呼ばれるようになった。周期を持って戻ってくる天体を予言して当てたことは、ニュートンの力学が天のすみずみまで通用することを示す、最も劇的な証明になった。