できごと

モーヴと合成染料

Mauveine
AD1856年
重要度 5
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1856年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1856年の版図を描いています(22勢力)。

概要

18歳の学生ウィリアム・パーキンが、復活祭の休みに自宅の屋根裏で、石炭タールから抗マラリア薬キニーネを合成しようとした。できたのは黒い泥だった。洗おうとしてアルコールを注ぐと、鮮やかな紫に溶けた。絹を染めると落ちない。彼は学校をやめ、父の貯金で工場を建てた。ヴィクトリア女王とウジェニー皇后がこの色を着て、流行した。以後、色は畑(藍、茜、コチニール)から工場へ移り、ドイツの染料会社がバイエルとBASFになる。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

ウィリアム・パーキンAD1838年3月12日–AD1907年7月14日 · 見つけた

本文

1856年の復活祭の休み、ロンドン東部シャドウェルの家の最上階で、18歳の学生が実験をしていた。ウィリアム・パーキンである。彼はロンドンの王立化学カレッジで学び、そこで教えていたドイツ人の化学者アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンの助手を務めていた。休みの間も、自宅の屋根裏に作った小さな実験室にこもっていた。

彼が挑んでいたのは、ホフマンがかねて口にしていた課題、キニーネを人の手で作ることだった。キニーネは南米のキナの木の皮から取れるマラリアの特効薬である(キニーネを取り出す)。インドやアフリカに植民地を広げるイギリスは大量のキニーネを必要としていたが、原料は南米に頼るしかなく、高価だった。もし石炭から作れたら、という夢である。

モーベインA(左)とモーベインB(右)の構造式(カチオン部分)
モーベインA(左)とモーベインB(右)の構造式(カチオン部分)Wikimedia Commons Calvero. · Public domain

当時の化学では、分子の中で原子がどうつながっているかという構造はまだ分からなかった。分かるのは、炭素や水素がいくつずつ含まれているかという組成だけである。パーキンは、石炭タールから得られるアリルトルイジンという物質を二つ合わせ、酸素を加えれば、キニーネと同じ組成になると計算した。数の上では、式はきちんと合っていた。

しかし組成が同じでも、原子のつながり方がまるで違えば別の物質である。今日の目で見れば、成功する見込みはまったく無かった。キニーネの合成が達成されるのは、ほぼ90年後の1944年のことである。

ウィリアム・パーキンの肖像
ウィリアム・パーキンWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

案の定、酸化してできたのは赤茶色の汚い泥だった。パーキンは、もっと単純な物質で試してみることにした。同じく石炭タールから取れるアニリンである。当時、アニリンは工業的にはほとんど使い道のない物質だった。

しかも彼が手にしていたアニリンは純粋ではなく、よく似たトルイジンという物質が混じっていた。純粋なアニリンからは、これから起きることは起きなかった。偶然の混ぜ物が、決定的な役を果たしたのである。

酸化させると、今度は黒い沈殿ができた。失敗である。パーキンはフラスコを洗おうとして、アルコールを注いだ。すると液が、鮮やかな紫色に染まった。試しに絹の切れ端を浸すと、きれいに染まった。洗っても色は落ちず、日に当てても簡単には褪せなかった。

紫は、天然の染料ではとりわけ出しにくい色だった。地衣類から取る紫はすぐに褪せ、古代に王の色とされた貝紫は、一枚の布を染めるのに途方もない数の貝が要り、事実上手に入らなかった。パーキンは染めた見本を、スコットランドのパースにある染色会社プラー社に送った。返事は、値段が高くなりすぎないなら、これは長く求められてきたものだ、絹でこれほど堅牢な色を得たことは無い、というものだった。

パーキンは、18歳で王立化学カレッジをやめることにした。師のホフマンは強く反対した。将来を嘱望された学生が、学問を捨てて商売に走ると見えたからである。パーキンは建築業を営む父を説き伏せて、蓄えのほとんどを出してもらい、兄のトマスも仲間に引き込んだ。1857年、ロンドン西郊のグリーンフォード、運河のほとりに工場が建った。

工場を動かすのは、試験管の中の発見とは別の苦労だった。原料のアニリンは、工業的な量では売られていない。そこで、ガス工場の副産物であるコールタールを買って蒸留し、そこから取ったベンゼンを硝酸で処理し、さらに還元してアニリンを自分たちで作った。染め方も一から考えなければならなかった。絹と木綿では染料の付き方が違い、木綿を染めるための下ごしらえの方法を開発して、染物屋を回って教えた。原料づくりから染めの指導まで、ほとんどを20歳前の若者がやってのけた。

この色は、やがてフランス語でゼニアオイの花を意味する「モーヴ」と呼ばれるようになった。流行に火を付けたのは宮廷である。フランスではナポレオン3世の皇后ウジェニーがこの色を好み、1858年にはイギリスのヴィクトリア女王が長女の結婚式に藤色の衣装で臨んだ。1859年、風刺雑誌『パンチ』は、ロンドンじゅうが「モーヴのはしか」にかかったと書いた。

モーヴの流行そのものは数年で終わった。しかし、示されたことは大きかった。ガス工場の厄介な廃棄物だった石炭タールから、自然には無い色が作れる。化学者たちはいっせいに新しい色を探し始めた。

1858年から翌年にかけて、フランスのヴェルガンが赤紫のフクシンを作り、ホフマンも自分の名を冠した紫を出した。1868年には、ドイツのグレーベとリーバーマンが、茜の根の赤い色素アリザリンの構造を突き止めて合成した。合成アリザリンが出回ると、フランスやオランダの茜の畑は、わずかな年月でほとんど姿を消した。

藍も同じ運命をたどった。ドイツの化学者アドルフ・フォン・バイヤーが藍の色素インディゴの構造を明らかにし、BASF社が巨額の費用と長い年月をかけて工業化に成功し、1897年に売り出した(合成インディゴ)。打撃を受けたのは、インドのベンガルやビハールの藍の栽培だった。藍の畑は、もともとヨーロッパ人の農園主が農民に過酷な条件で藍を作らせる場所として知られ、1859年には農民の大きな抵抗運動が起きている(藍の反乱)。合成インディゴが広まると、インドの藍の輸出は急速に減っていった。それでもビハールのチャンパーランでは、藍作りを強いられる農民の苦しみが続き、1917年、ガンディーはこの農民たちのためにインドで最初の大きな運動を起こした。

イギリスで始まった合成染料の産業は、まもなくドイツに移った。ドイツの大学は有機化学の研究者を大量に育てており、イギリスから戻ったホフマンもその中心にいた。ドイツの染料会社は社内に研究所を置き、大学で学んだ化学者を雇って、新しい物質を組織的に探し続けた。企業の中に研究所を持つというやり方は、ここから広まった。

1860年代に生まれたバイエル、ヘキスト、BASF、アグファといった会社は急成長し、1900年ごろには世界の合成染料の8割から9割をドイツが作っていた。第一次世界大戦が始まると、イギリスは軍服を染める染料にさえ困ったという。1925年、ドイツの主な染料会社は合併してIGファルベンになり、のちにナチ体制の戦争と深く関わっていく。

染料の研究は、薬も生んだ。染料は特定の繊維や組織にだけよく付く。ドイツの医学者パウル・エールリヒはそこから、病原体にだけ取り付いて殺す物質があるはずだと考え、それを「魔法の弾丸」と呼んだ。1909年、彼の研究室で梅毒の薬サルバルサンが見つかった。1932年には、バイエル社で赤い染料プロントジルに細菌を抑える力が見つかり、スルファ剤の時代が始まる(その一つがエリキシル・スルファニルアミド事件を引き起こした)。

パーキン自身は、36歳で工場を売り払った。すでに十分な財産があった。その後は自宅の実験室で、純粋な化学の研究に戻った。1868年には干し草のような香りのするクマリンを合成し、これは最初期の合成香料の一つとして香水の産業を開いた。

彼の名を取った「パーキン反応」も残っている。1906年、モーヴの発見から50年を記念する催しが各国で開かれ、彼はナイトに叙され、アメリカでは彼の名を冠した応用化学の賞が作られた。翌1907年7月14日、69歳で死んだ。

パーキン以前、色は土と植物と虫と貝から来ていた。赤はメキシコのサボテンにつく虫やフランスの茜の畑から、青はインドの藍の畑から、紫は地中海の貝から。色は季節と土地と天候に縛られ、高価だった。パーキン以後、色は工場から来るようになった。いま私たちが身につけている服のほとんどは、石炭や石油から作られた分子で染まっている。

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