概要
18歳の学生ウィリアム・パーキンが、復活祭の休みに自宅の屋根裏で、石炭タールから抗マラリア薬キニーネを合成しようとした。できたのは黒い泥だった。洗おうとしてアルコールを注ぐと、鮮やかな紫に溶けた。絹を染めると落ちない。彼は学校をやめ、父の貯金で工場を建てた。ヴィクトリア女王とウジェニー皇后がこの色を着て、流行した。以後、色は畑(藍、茜、コチニール)から工場へ移り、ドイツの染料会社がバイエルとBASFになる。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ウィリアム・パーキンAD1838年3月12日–AD1907年7月14日 · 見つけた本文
**1856年、復活祭の休み**。
ロンドン、東部のケーブル・ストリート。18歳の学生**ウィリアム・ヘンリー・パーキン**が、自宅の最上階に作った実験室にいた。
彼は、王立化学カレッジの学生であり、そこの教授**アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン**の助手だった。
**課題**。
ホフマンが、こう言っていた。**キニーネを人工的に作れないか**。
キニーネは、南米のキナの樹皮から取れる、マラリアの特効薬である。イギリスはインドとアフリカに植民地を持ち、大量のキニーネを必要としていた。しかし、供給は南米に依存し、高価だった。
当時の化学の水準では、分子の構造は分かっていない。分かるのは**組成式**だけである。
キニーネ:C₂₀H₂₄N₂O₂。
パーキンは、こう考えた。石炭タールから得られる**アリルトルイジン**(C₁₀H₁₃N)を二つ取り、酸化剤で酸素を加えれば、キニーネになるのではないか。
2 C₁₀H₁₃N + 3 O → C₂₀H₂₄N₂O₂ + H₂O
**式は合っている**。
(分子式が合っていても、構造がまるで違う。20世紀の目で見れば、成功する見込みはない。キニーネの全合成が達成されるのは1944年である。)
**失敗**。
彼が重クロム酸カリウムで酸化してみると、できたのは**赤茶色の汚い泥**だった。
**次の試み**。
彼は、より単純な物質で試すことにした。**アニリン**(C₆H₇N。石炭タールから得られる。当時は工業的にはほとんど使い道がなかった)。
(そして、彼が使ったアニリンは純粋ではなく、**トルイジン**が混じっていた。これが決定的だった。純粋なアニリンからは、この色は出ない。)
酸化した。できたのは、**黒い沈殿**だった。
彼は、それを捨てる前に、フラスコを洗った。**アルコール**を注いだ。
**液が、鮮やかな紫に染まった**。
**確認**。
彼は、絹の切れ端をその液に浸してみた。染まった。
そして——**洗っても落ちない。日に当てても褪せない**。
当時、紫は、天然染料では最も出しにくい色の一つだった。地衣類から取る紫(オルシユ)はすぐ褪せ、貝紫は事実上入手できない。
**行動**。
彼は、その染料の見本を、スコットランドの染色会社**ピュラー社**に送った。
返事が来た。
「もし、あなたの発見が製品を高価にしすぎないのであれば、これは、**長い間、求められてきたものの一つ**です。……我々は、これほど堅牢な色を、絹で得たことがありません」。
**決断**。
パーキンは、**18歳**で、王立化学カレッジを**辞めた**。
師ホフマンは激怒した。前途有望な学生が、学問を捨てて商売に走る。彼は反対した。
(ホフマン自身、後にドイツに戻って染料化学の中心人物になる。彼の弟子たちが、ドイツの染料産業を築く。)
パーキンは、父(建築業者)を説得して**全財産に近い貯金を出させ**、兄トマスを引き込んだ。
1857年、ロンドン西郊グリーンフォードのハーロー運河のほとりに、工場を建てた。
**技術的な困難**。
(1)アニリンが、工業的な量では手に入らない。**自分で作った**(ベンゼンを硝酸で処理してニトロベンゼンにし、還元する)。
(2)ベンゼンも、十分な量がない。石炭ガス会社から**コールタール**を買い、蒸留した。
(3)染色の方法が、絹と綿で違う。彼は、綿を媒染する方法(タンニンと酒石酸アンチモン)を自分で開発し、染色業者に教えて回った。
18歳が、原料の製造から、染色の技術指導まで、全部やった。
**流行**。
1857年、彼はこの色を「**モーヴ**」(フランス語でゼニアオイの花)と名づけた。
- 1857年、**ウジェニー皇后**(ナポレオン3世の妃)が、自分の目の色に合うとして、この色のドレスを着た。 - 1858年、**ヴィクトリア女王**が、長女の結婚式にモーヴのガウンを着た。 - 1859年、『**パンチ**』誌が「モーヴの麻疹(mauve measles)」と書いた。ロンドン中がこの色になった。 - 1861年、イギリスの**1ペニー切手**がモーヴで印刷された。
**その先**。
モーヴは、5年ほどで流行を終えた。しかし、示されたことは決定的だった。
**石炭タールという廃棄物から、天然にない色が作れる**。
以後、10年で、多数の合成染料が出た。
- 1858年、**フクシン**(マゼンタ)。フランスのヴェルガン。 - 1863年、ホフマンの紫。 - 1868年、**アリザリン**(茜の赤)。ドイツのグレーベとリーバーマンが構造を決定し、合成した。翌年、天然の茜の栽培が壊滅した(フランスとオランダの農業に打撃)。 - 1878〜97年、**インディゴ**(藍)。アドルフ・フォン・バイヤーが構造を決定し、BASFが工業化に**1700万金マルク**(当時の同社の資本を超える額)を投じた。1897年、市場に出た。
**インドの藍**の栽培(ベンガル、ビハール。過酷な労働で知られ、1859年の「藍一揆」を引き起こした)は、20年で消滅した。1917年、ガンディーが最初の大規模な運動(チャンパーラン闘争)を起こしたのは、まさにこの藍農民のためである。
**ドイツへ**。
イギリスが始めた産業は、**ドイツに移った**。
理由。
(1)**教育**。ドイツの大学は、有機化学の研究者を大量に育てていた(ホフマンが帰国して、その中心にいた)。イギリスは、産業と大学の結びつきが弱かった。
(2)**特許制度**。イギリスの特許は、製法を守るのに不十分だった。ドイツは1877年に特許法を整備した。
(3)**研究所**。ドイツの会社は、社内に研究室を持った。**産業研究所**の始まりである。
**バイエル**(1863年設立)、**BASF**(1865年)、**ヘキスト**(1863年)、**アグファ**(1867年)。
1900年、世界の合成染料の**80〜90%**をドイツが生産していた。
(第一次大戦で、イギリスは自国で染料を作れず、軍服を染めることにさえ困った。戦後、この4社を含む8社が合併して**IGファルベン**になる。同社は、後にツィクロンBの製造に関わる。)
**そして、薬**。
染料の研究から、医薬品が生まれた。
染料は、特定の組織に選択的に結合する。**パウル・エールリヒ**は、そこから考えた。ある細菌にだけ結合して殺す物質があるはずだ。「**魔法の弾丸**」。
1909年、サルバルサン(梅毒の薬)。
1932年、**プロントジル**(最初のサルファ剤)。ドマークが、バイエルの染料の在庫から見つけた。**赤い染料**である。
**パーキン**。
彼は**36歳**で会社を売った。既に十分な資産を得ていた。
以後、自宅の研究室で、純粋な化学の研究に戻った。
- **パーキン反応**(芳香族アルデヒドから桂皮酸を作る反応。彼の名がついている)。 - **クマリン**の合成(1868年)。干し草のような香り。**最初の合成香料**の一つ。香水産業の出発点になった。 - 磁気回転(ファラデー効果)と分子構造の関係の研究。
彼の息子二人(ウィリアム・ヘンリー・ジュニアと、アーサー・ジョージ)も化学者になった。
**1906年**、モーヴ発見50周年。彼は世界中で顕彰された。ナイトに叙された。アメリカの化学会が彼を招き、**パーキン・メダル**が創設された(いまも、アメリカの応用化学の最高の賞である)。
**1907年7月14日**、死去。69歳。
**残ったもの**。
パーキン以前、色は**土と、植物と、虫と、貝**から来ていた。
コチニールはメキシコのサボテンから、藍はインドの畑から、茜はフランスの畑から、貝紫は地中海の貝から。
だから、色は季節と、土地と、天候に縛られていた。そして、高価だった。
パーキン以後、色は**工場**から来る。
いま、我々が着ている服のほとんどは、石炭あるいは石油から作られた分子で染まっている。