人物

マドハヴァ

Madhava of Sangamagrama
AD1340年頃 – AD1425年頃(享年85・推定)
ケーララ重要度 5

概要

南インド、ケーララのサンガマグラーマ(イリンジャーラクダ)。ケーララ学派の創始者。円周率、正弦、余弦、逆正接の無限級数。π=√12(1−1/(3·3)+1/(5·3²)−…)で11桁まで求めた。彼自身の著作はほとんど失われ、弟子たち(ニーラカンタ、ジェーシュタデーヴァ)の書物の中の引用で知られる。『ユクティバーシャー』(1530年頃、マラヤーラム語)は、証明を伴う数学書として、世界で最初期のもの。

関わったできごと(1)

ケーララ学派の無限級数AD1400年頃 · 見つけた

本文

マドハヴァは、14世紀の半ばから15世紀の初めにかけて、南インドの西海岸ケーララに生きた数学者・天文学者である。1340年ごろに生まれ、1425年ごろに死んだと推定されているが、どちらも確かな年ではない。後の時代の文献によれば、サンガマグラーマという村の、イランニンナッパッリという家の出のバラモンだった。サンガマグラーマは、いまのトリシュール県のイリンジャーラクダのあたりと考えられているが、異説もある。

当時のケーララは、香辛料の交易で栄える小さな王国が並ぶ土地だった。北インドがイスラム勢力の王朝の支配下に入り、戦乱が続いたのに対し、ケーララは比較的平穏で、バラモンの家々が代々、天文学と数学を家の学問として受け継いでいた。インドの天文学は、5世紀のアーリヤバタ、7世紀のブラーマグプタ以来の長い伝統を持つ。暦を作り、日食や月食を予言し、惑星の位置を求めるためには、角度から弦の長さを求める正弦の値を、できるだけ正確に知る必要があった。マドハヴァの数学は、その要請から生まれた。

彼の人生について分かることは、ほとんどない。本人の書いたもので今に残るのは、天文学の小さな作品が数点だけである。その一つは、月の位置を短い時間ごとに求めるための数値を、韻文の中に音節で埋め込んだものだ。数学の主な成果は、すべて弟子と、そのまた弟子たちの本の中に、マドハヴァによればこうである、という形で引用されて伝わった。16世紀初めのニーラカンタの天文書『タントラ・サングラハ』、1530年ごろにジェーシュタデーヴァがマラヤーラム語で書いた『ユクティバーシャー』などがそれである。彼に始まる師弟の連なりは「ケーララ学派」と呼ばれ、16世紀まで続いた(ケーララ学派の無限級数)。

彼の名に結びつけられている成果の中心は、無限に続く足し算、すなわち無限級数である。円周率の4分の1は、1から3分の1を引き、5分の1を足し、7分の1を引き、と奇数の逆数を交互に足し引きしていった極限に等しい。ヨーロッパでは17世紀にゴットフリート・ライプニッツが見つけて「ライプニッツの級数」と呼ばれてきたものと同じである。さらに、正接の値から角度を求める級数、正弦や余弦を角度の累乗の足し引きで表す級数も、ケーララ学派の書物にマドハヴァのものとして記されている。ヨーロッパでこれらが見つかったのは、アイザック・ニュートンやスコットランドのグレゴリー、ライプニッツによる1660年代から1670年代のことで、およそ250年後である。今日では、教科書の中に「マドハヴァ・ライプニッツ級数」のように彼の名を並べて書く例も増えている。

驚かれているのは、結果だけでなく、その導き方である。『ユクティバーシャー』には、級数を導く筋道が説明つきで書かれている。円の4分の1の弧を細かく等分し、小さな弧の一つ一つを、それに対応する短い直線で置き換えて足し合わせる。分け方を細かくすればするほど、その和は本当の値に近づいていく。その過程で、1からnまでの整数のk乗を足し合わせた和が、nが大きくなるにつれてnのk+1乗をk+1で割った値に近づく、という事実が使われている。これは、今日の言葉で言えば積分の考え方そのものである。説明と証明を伴う数学の書物として、『ユクティバーシャー』は世界でも早い例とされる。

ただ、円周率の級数は、そのままでは実用にならないほど収束が遅い。何百項足しても、小数点以下数桁しか合わない。マドハヴァは、途中で足すのをやめたときに残る誤差を見積もり、それを補う項を最後に加える工夫をした。精度の異なる3種類の補正の式が伝わっている。円周率を3の平方根の2倍に掛ける形の別の級数も使い、彼は円周率を小数第10位まで、11桁にわたって正しく求めた。その値は、数を子音に置き換えて言葉にする方式で詩の中に記されている。読み解くと、直径が9000億の円の円周を2兆8274億あまりとする値で、これを割ると3.14159265359になる。

彼が手にしていたのは、無限級数、極限、誤差の見積もりといった、微分積分学の重要な部品の多くだった。ただし、それらを関数一般に通用する道具としてまとめ上げ、微分や積分という一つの体系に仕立てる段階には進まなかった。目的は、あくまで天体の位置の計算をより正確にすることにあった。

ケーララ学派の写本は、椰子の葉に書かれ、家々の中で書き写されながら伝えられた。外の世界に知られたのは19世紀になってからである。1830年代、イギリス東インド会社の役人チャールズ・ウィッシュが、王立アジア協会の紀要に、ヒンドゥーの書物の中に無限級数による円周の求め方がある、と紹介した。だが当時のヨーロッパでは、インドの数学はギリシアの模倣にすぎないという見方が強く、この報告はほとんど顧みられなかった。20世紀の半ばから、インドの数学者ラージャゴーパールらが原典を丹念に読み直し、1970年代以降、国際的にも広く認められるようになった。

ケーララの知識が、16世紀にこの地に来たイエズス会の宣教師などを通じてヨーロッパに伝わり、微積分の誕生に影響したのではないか、という説もある。だが、それを裏づける確かな証拠は見つかっておらず、今のところは仮説にとどまっている。ヨーロッパより2世紀以上も早く、遠く離れた南インドの村で、同じ無限の足し算にたどり着いた人がいたこと自体が、数学の歴史の大きな驚きである。

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