できごと

マンハッタン計画

Manhattan Project
AD1942年8月
重要度 5
マンハッタン計画に関わる図版:Time, 3-22 p.m, December 2, 1942. Place, Racquets Court under West Stands of Stagg Field, University of Chicago.... - NA
Time, 3-22 p.m, December 2, 1942. Place, Racquets Court under West Stands of Stagg Field, University of Chicago.... - NA Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

概要

ドイツが先に作ることを恐れて、ロスアラモスに物理学者を集めた。13万人、20億ドル。1945年7月16日、アラモゴードの砂漠で最初の爆発。オッペンハイマーは『バガヴァッド・ギーター』を思い出した。「我は死なり、世界の破壊者なり」。3週間後、広島。

場所

ロスアラモス
35.88°N -106.30°E · アメリカ・ニューメキシコ州

関わった人(1)

ロバート・オッペンハイマーAD1904年4月22日–AD1967年2月18日 · 所長

本文

1938年12月、ベルリンのハーンとシュトラスマンは、中性子を当てたウランから、ずっと軽いバリウムが出てくることを確かめた。亡命先のマイトナーと甥のフリッシュがそれを、ウランの原子核が二つに割れたのだと解釈した(核分裂の発見)。割れるときに巨大なエネルギーと、さらに中性子が出るなら、連鎖反応で爆弾が作れる。物理学者たちはすぐにそれに気づいた。とりわけ恐れたのは、ヨーロッパから逃れてきたユダヤ系の科学者たちである。発見の地はナチス・ドイツだった。

1939年8月、ハンガリー出身の物理学者シラードが手紙を起草し、アインシュタインが署名した。ドイツが原子爆弾を作る可能性があり、アメリカも研究を急ぐべきだ、という内容である。手紙は10月にフランクリン・ローズヴェルト大統領のもとへ届けられ、小さな委員会ができたが、動きは鈍かった。流れを変えたのはイギリスだった。1941年、イギリスの委員会(モード委員会)は、ウラン235を十分に集めれば、数年のうちに爆弾が作れると結論した。同じ年の12月、アメリカは参戦した。

グローヴス(左)とオッペンハイマー
グローヴス(左)とオッペンハイマーWikimedia Commons United States Army · Public domain

1942年6月、計画は陸軍に移された。8月、工兵隊の中に「マンハッタン工兵管区」が置かれた。最初の事務所がニューヨークのマンハッタンにあったことからの名である。9月、ペンタゴンの建設を指揮したグローヴス准将が責任者になった。強引で人に嫌われ、そして驚くほど有能な男だった。グローヴスは着任の数日後には鉱石を買い押さえ、テネシー州の谷に広大な土地を買った。

計画は、何もない土地に工場都市を作るところから始まった。テネシー州のオークリッジでは、天然のウランにわずか0.7%しか含まれないウラン235を選り分けるため、気体を膜に通すK-25工場と、電磁石で分けるY-12工場が建てられた。町の人口は数年で7万を超えた。ワシントン州のハンフォードでは、原子炉でウランからプルトニウムを作る工場が建った。そのもとになる実験は、1942年12月2日、シカゴ大学のフットボール場の観客席の下にあるスカッシュコートで行われた。フェルミの組が黒鉛とウランを積み上げた原子炉で、人類最初の制御された連鎖反応を起こした。

オークリッジに置かれたY-12電磁的ウラン濃縮施設のシフト交代。1945年5月には、82000人の労働者がクリントン・エンジニア・ワークスで雇われていた
オークリッジに置かれたY-12電磁的ウラン濃縮施設のシフト交代。1945年5月には、82000人の労働者がクリントン・エンジニア・ワークスで雇われていたWikimedia Commons Ed Westcott / US Army / Manhattan Engineer District · Public domain

爆弾そのものを設計する研究所の所長に、グローヴスはロバート・オッペンハイマーを選んだ。ノーベル賞もなく、大きな組織を率いた経験もない理論物理学者だったが、話の飲み込みの速さと幅の広さがグローヴスを動かした。場所はオッペンハイマーが選んだ。少年時代から馬で回ったニューメキシコの台地の上、男子の寄宿学校があったロスアラモスである。1943年春、数十人で始まった研究所は、1945年には6000人ほどの町になった。ベーテ、テラー、フォン・ノイマン、ファインマン、セグレらが集まり、デンマークのボーアも訪れた。郵便の宛先は私書箱一つで、子どもの出生届にも住所は書かれなかった。科学者たちの平均年齢は若く、20代も多かった。

爆弾は二つの型で作られた。ウラン235を使う型は、砲身の中で二つの塊を撃ち合わせる単純な仕組みで、確実に動くと考えられ、試験をしないまま使われることになる。広島に落とされた「リトルボーイ」である。プルトニウムでは同じ仕組みが使えないことが1944年に分かり、周りを囲んだ火薬で球を内側へ押しつぶす「爆縮」という難しい方式に賭けることになった。長崎の「ファットマン」である。爆縮が本当に働くかを確かめるため、1945年7月16日の早朝、ニューメキシコの砂漠で最初の核爆発の実験が行われた(トリニティ実験)。爆発は多くの科学者の予想を超え、威力はTNT火薬にして2万トンから2万5000トンほどと見積もられている。オッペンハイマーはのちに、そのとき古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、「我は死なり、世界の破壊者なり」を思い出した、と語っている。実験の責任者ベインブリッジは「これで我々はみな、ろくでなしだ」と言ったと伝えられる。

トリニティ実験に関わる図版:Trinity shot color
トリニティ実験Wikimedia Commons Jack W. Aeby , July 16, 1945, Civilian worker at Los Alamos laboratory, working under the aegis of the Manhattan Project · Public domain

この間に状況は変わっていた。1945年4月、ローズヴェルトが死んだ。副大統領だったハリー・トルーマンは計画を知らされておらず、4月25日に陸軍長官スティムソンとグローヴスから詳しい説明を受けた。5月にはドイツが降伏し、戦後の調査で、ドイツの原爆研究がはるかに遅れていたことが分かる。ドイツに先を越されないために作られた爆弾は、残る日本に向けられることになった。シカゴの科学者たちは6月、無人の地で威力を見せて警告すべきだとする報告(フランク報告)を出し、シラードは使用に反対する請願を集めたが、決定を変えることはなかった。実験の成功はポツダム会談に臨んでいたトルーマンに暗号で知らされた。8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が落とされた(広島・長崎への原爆投下)。

計画全体で働いた人は延べ13万人、費用は約20億ドルに達した。その大半は、自分が何を作っているかを知らなかった。使用の判断をめぐっては、本土上陸作戦の犠牲を避けるためだったという説明と、戦後のソ連に力を見せる狙いが大きかったとする説とが、いまも争われている。

Nagasakibomb
Wikimedia Commons Charles Levy · Public domain

秘密は守り切れなかった。イギリスの代表団の一員としてロスアラモスで働いたドイツ出身の物理学者フックスは、爆縮の設計をソ連に流していた。ソ連は1949年8月に最初の原爆を爆発させた。アメリカの独占はわずか4年で終わり、核兵器の競争が始まった。1946年の法律で、核開発は軍の手から文民の原子力委員会へ移された。オッペンハイマーは水爆の開発に慎重な姿勢をとり、1954年、政府の聴聞で機密に触れる資格を取り上げられた。2022年、アメリカのエネルギー省はその処分を取り消した。ロスアラモスはいまも国立研究所として核兵器の研究を続けている。1955年のラッセル=アインシュタイン宣言は、手紙に署名したアインシュタインが死の直前に署名した最後の文書の一つになった。

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