マーシュ試験
概要
砒素は無味無臭で、症状がコレラや食中毒に似る。長く、最も使いやすい毒だった。ウーリッジ王立兵器廠の化学者ジェームズ・マーシュが、亜鉛と酸で発生させた水素に試料を混ぜ、燃やして、砒素の黒い鏡を得る方法を作った。ごく微量でも見え、陪審に現物を見せられる。1840年のラフアージュ事件でオルフィラがこれを法廷で行い、有罪になった。毒を、証拠として取り出せるようになった最初の例である。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
三酸化二砒素、いわゆる亜砒酸は白い粉である。味もにおいもほとんどなく、水に少し溶ける。そして安く、どこでも手に入った。19世紀のイギリスでは鼠取りの薬として薬屋で普通に売られ、買うのに理由はいらなかった。
飲まされると、激しい吐き気と下痢、腹痛に襲われ、脱水を起こして死に至る。その症状はコレラや食中毒とほとんど見分けがつかない。19世紀の前半はヨーロッパでコレラが繰り返し流行した時代で(ジョン・スノウのコレラ地図もその一つである)、人が急に吐いて死んでも「またコレラか」で済んでしまうことが多かった。フランスでは砒素は「相続の粉」と呼ばれた。17世紀のブランヴィリエ侯爵夫人の事件や、宮廷を揺るがした毒薬事件以来の、ありがたくない呼び名である。
それまでも砒素を見つける方法がなかったわけではない。熱するとニンニクのようなにおいがするが、においは人によって感じ方が違い、法廷で示せない。硫化水素を通すと黄色い沈殿ができる反応もあったが、感度が低く、ほかの物質でも似た色が出る。疑わしい残り物を動物に食べさせてみる、という乱暴なやり方もあった。どれも裁判の証拠としては弱かった。
きっかけは1832年、ロンドン東南のプラムステッドで起きた事件だった。農場主ジョージ・ボドルが急死し、孫のジョン・ボドルが砒素入りのコーヒーで祖父を殺したとして告発された。鑑定を頼まれたのが、ウーリッジの王立兵器廠で働く化学者ジェームズ・マーシュ(1794〜1846年)である。マーシュは硫化水素の方法で砒素を見つけ、黄色い沈殿を得た。ところが法廷に持ち込むまでに沈殿は傷み、陪審に見せたときにはもうはっきりしなかった。孫は無罪になった。のちに本人が罪を認めたと伝えられるが、同じ罪で二度裁くことはできなかった。
マーシュはこの結果に強い不満を抱き、もっと確かで、誰の目にも見える方法を探した。そして1836年、新しい検出法を発表する。調べたい試料に亜鉛と酸(硫酸か塩酸)を加えると、水素の泡が出る。試料に砒素が含まれていれば、砒素は水素と結びついてアルシン(砒化水素)という気体になる。この気体を細いガラス管に通して熱するか、炎にして冷たい陶器やガラスに当てると、砒素が分かれて、金属の光沢のある黒い膜となって付く。これが「砒素鏡」である。
この方法には三つの強みがあった。一つ目は感度で、0.02ミリグラムほどの砒素でも見つけられたとされ、それまでの方法とは桁が違った。二つ目は目に見えることだ。黒く光る膜を、ガラス管ごと陪審員に見せられる。「化学者がそう言っている」ではなく、「これを見よ」と言えるのである。三つ目は、似た膜を作るアンチモンと区別できることで、次亜塩素酸ナトリウムの液に浸すと、砒素の膜は溶け、アンチモンの膜は溶けずに残る。
この方法の名を一気に広めたのが、1840年のフランスのラファルジュ事件である。マリー・ラファルジュ(旧姓カペル)が、夫シャルルを砒素で殺したとして告発された。若い妻と、借金を抱えた田舎の製鉄業者の夫という組み合わせもあって、フランス中の新聞が書き立て、裁判は大きな見世物になった。
地元の医師たちが古い方法で調べると、砒素が出た。弁護側は、もっと確かな新しい方法、つまりマーシュの方法で調べ直すよう求めた。地元の化学者が試すと、今度は出なかった。そこでパリから、当代随一の毒物学者マテュー・オルフィラが呼ばれる。1840年9月、オルフィラは掘り起こした遺体の組織を使ってマーシュの方法で調べ、砒素を見つけた。さらに墓の周りの土も調べて砒素が出ないことを示し、土や体にもともと含まれる砒素ではないと論じた。
マリーは有罪となり、終身の強制労働を言い渡された。獄中で回想録を書き、1852年、ナポレオン3世によって釈放されたが、同じ年のうちに病気で亡くなった。彼女が本当に夫を殺したのかは、当時から支持者と反対者が激しく争い、いまも議論が残っている。
それでも、この裁判で化学が法廷に入った。毒を体の中から取り出し、目に見える証拠として示す法医毒物学が、公衆の前に姿を現したのである。19世紀の後半、砒素による毒殺の告発は減っていく。因果を厳密に示すのは難しいが、見つかるようになったから手を出す者が減った、というのが一般的な説明である。
毒の売り方も変わった。イギリスでは1851年に砒素法ができ、砒素を売るときには買い手の名と用途を帳面に記すことが義務づけられた。少量を売るときは、煤か藍で色を付けて、白い粉のままにしないことも求められた。小麦粉や砂糖との取り違えを防ぐためでもある。それでも1858年には、ブラッドフォードで砂糖の代わりに亜砒酸を混ぜて作られた菓子が売られ、20人あまりが死に、200人以上が中毒になった。この事件は、毒物の販売を薬剤師に限った1868年の薬事法へつながるきっかけの一つになった。
マーシュ本人は報われなかった。兵器廠の給料は低く、この方法で特許も大きな報酬も得ていない。1836年に技芸協会から金メダルを受けたのが目立った栄誉で、1846年に52歳で貧しいまま亡くなった。残された家族は困窮したと伝えられる。
マーシュの試験そのものは、いまではもう使われていない。原子吸光や質量分析といった機械が、はるかに少ない量を正確に測る。だが、ごく微量の物質を特定の反応で目に見える形にし、それを法廷に出せる証拠にする、という考え方はそのまま受け継がれた。のちの指紋による身元確認などと並んで、マーシュの試験は現代の法科学の出発点の一つになった。砒素はいまも、井戸のヒ素のように、毒殺ではなく地下水の汚染という形で人々を脅かしている。