できごと

女性が初めて医学の学位を得る

First woman to earn a medical degree in the US
AD1849年1月23日
重要度 3
大英帝国カナダアメリカ合衆国デンマークアメリカ合衆国ヌエバ・エスパーニャ副王領スペイン帝国スペインAD1849年1月23日ジェニーヴァ(ニューヨーク州)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1849年1月23日の版図を描いています(8勢力)。

概要

29の医学校に断られ、30校目で教授会が判断を学生に投げた。学生は冗談で全員一致の入学を認め、本人は本気で受け取って首席で卒業した。

場所

ジェニーヴァ(ニューヨーク州)
42.87°N -76.98°E · アメリカ合衆国・ニューヨーク州

関わった人(1)

エリザベス・ブラックウェルAD1821年2月3日–AD1910年5月31日 · 卒業

本文

エリザベス・ブラックウェルは1821年、イングランドのブリストルで、砂糖精製業を営む家に生まれた。父は奴隷制に反対する考えを持ち、娘たちにも息子と同じ教育を受けさせた。1832年に一家はアメリカへ渡り、ニューヨークを経てオハイオ州シンシナティに移ったが、その直後の1838年に父が亡くなる。残された母と娘たちは学校を開いて暮らしを立てた。

医師を志したきっかけは、病で死にかけていた女友達の言葉だったと、ブラックウェルは自伝に書いている。体の悩みを男の医師に打ち明けるのがどれほどつらいか、女の医師がいれば自分はあれほど苦しまなかった、と言われたのだという。ブラックウェル自身は、もともと病気や体のことが苦手だった。それでも、女性が医師になれないという壁そのものに挑む値打ちがあると考えた。

エリザベス・ブラックウェルの肖像
エリザベス・ブラックウェルの肖像Wikimedia Commons Hobart and William Smith Colleges Archives · Public domain

当時のアメリカの医学校は、女性を受け入れていなかった。ブラックウェルは南部の医師の家に住み込んで教師をしながら、医学書を借りて独学した。そしてフィラデルフィアやニューヨークの名だたる医学校に願書を出し続け、すべて断られた。断られた数は、伝記では29校とされることが多い。男の服を着てパリで学べばよい、と勧める医師もいたが、女性として堂々と学ぶのでなければ意味がない、と退けた。

1847年の秋、ニューヨーク州北部の小さな町ジェニーヴァの医学校から、入学を認める通知が届いた。教授会は扱いに困り、断る口実として学生たちに判断を任せていた。学生のうち一人でも反対すれば入学させない、という条件をつけた。150人ほどの学生たちは、近くのライバル校のいたずらだと思い込み、面白がって全員が賛成の声を上げた。本当に女性がやって来たとき、学生も教授も驚いた。

エリザベス・ブラックウェルの肖像、コズロウスキ画(1963年)
エリザベス・ブラックウェルの肖像、コズロウスキ画(1963年)Wikimedia Commons Joseph S. Kozlowski · Public domain

学校の中で、ブラックウェルは真面目に学び続け、学生たちの態度もしだいに改まった。解剖学の授業では、生殖器を扱う回だけ欠席するよう求められたが、手紙で教授に、学ぶ者として出席させてほしいと頼み、認められた。町の人々は彼女を好奇の目で見て、婦人たちは道ですれ違っても口をきかなかった。下宿の女主人にも、まともな女ではないと思われていたという。休みの間はフィラデルフィアの救貧院の病院で実習し、発疹チフスの患者を観察して卒業論文にまとめた。

1849年1月23日、ブラックウェルは首席で卒業し、医学博士の学位を受けた。学位を授けた学長に、神の助けを得て、この学位に恥じない生き方をしたいと答えたと伝わる。アメリカで、医学校を卒業して医学の学位を得た初めての女性になった。前の年にはニューヨーク州のセネカ・フォールズで女性の権利を求める集会が開かれていた(セネカ・フォールズ会議)。新聞は彼女の卒業を大きく取り上げた。

ニューヨーク施療院付属女子医科大学の案内(1868〜69年)
ニューヨーク施療院付属女子医科大学の案内(1868〜69年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

だが、学位を得ても道は開けなかった。ブラックウェルはパリへ渡り、産科の病院で見習いとして働いた。そこで新生児の目の感染症の手当てをしているとき、膿が自分の目に入り、片目の視力を失う。外科医になる夢は断たれた。ロンドンの病院で学んでいた時期には、のちに看護の改革者になるフローレンス・ナイチンゲールと出会い、友情を結んでいる。

1851年、ニューヨークに戻って開業したが、女の医者のもとへ来る患者はほとんどいなかった。家主は部屋を貸すのを渋り、病院は勤め口をくれなかった。ブラックウェルは貧しい人々が住む地区に小さな診療所を開いた。1857年には、同じく医師になった妹のエミリー、ポーランド出身の女性医師マリー・ザクルゼフスカとともに、貧しい女性と子どものための病院を開く。働く医師も看護師も女性だった。南北戦争のときには、北軍のための看護婦の選抜と訓練に関わった。

1974年の米国切手に描かれたブラックウェル
1974年の米国切手に描かれたブラックウェルWikimedia Commons U.S. Printing Office · Public domain

1868年、ブラックウェルはこの病院に女性のための医学校を付け加えた。翌年イギリスに移り、ロンドンの女子医学校で教えるなど、イギリスでも女性が医師になる道を開くために働いた。1859年には、イギリスの医師名簿に名前が載った最初の女性にもなっている。晩年は、衛生と予防の大切さを説く文章を多く書いた。1910年、イングランド南部の海辺の町ヘイスティングズで亡くなった。89歳だった。

ジェニーヴァの学生たちの冗談がなければ、扉はもう少し長く閉ざされていたかもしれない。だがその扉を本気で押し開け、後に続く女性たちのために病院と学校を作ったのは、彼女自身だった。ブラックウェルが亡くなるころ、アメリカの女性医師は数千人に増えていた。

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