鈴木梅太郎
概要
静岡の農家。東京帝国大学農芸化学。ベルリンでエミール・フィッシャーに学んだ。帰国して、日本人の主食である米を研究し、1910年、米糠から脚気に効く成分を取り出して「オリザニン」と命名した。栄養に微量で不可欠な物質があるという考えは当時の医学界に受け入れられず、ドイツ語訳で「新発見」の語が抜け落ちたこともあって、国際的な先取権はフンクの「ビタミン」に移った。合成酒と、栄養研究所の設立にも関わった。
所属
日本関わったできごと(1)
脚気とビタミンの発見AD1910年 · 取り出した本文
鈴木梅太郎は1874年4月7日、静岡県榛原郡堀野新田村(現在の牧之原市)の農家に生まれた。家は豊かではなく、少年は農作業を手伝いながら育った。後年、農家の子として日本人が毎日何を食べているかを知っていたことが自分の研究の出発点だった、という趣旨のことを語っている。

上京して東京帝国大学農科大学の農芸化学科に学び、1896年に卒業して大学院に進んだ。1901年から1906年までドイツに留学し、ベルリン大学のエミール・フィッシャーの研究室に入った。糖やタンパク質の化学で1902年にノーベル化学賞を受けた、当時の有機化学の頂点に立つ学者である。世界中から若い研究者が集まるこの研究室で、鈴木はタンパク質を作るアミノ酸を分け、調べる技術を身につけた。
帰国後、母校の教授になった鈴木が研究の対象に選んだのは、米だった。最先端の化学の手法を、日本人の主食に向けたのである。
当時、日本には脚気という深刻な病があった。足がしびれてむくみ、重くなると心臓が弱って死に至る。白米を腹いっぱい食べられる都会の人々や兵士に多く、年に1万人以上が命を落としていた。日露戦争(日露戦争)では、陸軍の兵士に膨大な脚気の患者が出ている。原因については、細菌による感染症だとする説が東京大学の医学部や陸軍の軍医たちのあいだで強く、陸軍の軍医だった森鷗外もその立場をとった。一方、海軍の軍医高木兼寛は、食事を洋食や麦飯に変えて海軍の脚気をほとんどなくしていたが、何が効いているのかは分かっていなかった。オランダのエイクマンは、ジャワで白米ばかり与えた鶏が脚気に似た病気になり、米糠を与えると治ることを見つけていたが、彼自身は、白米に毒があり糠がそれを打ち消すのだと考えていた。

1910年、鈴木は米糠から、この病に効く成分を取り出すことに成功した。白米だけで育てて脚気のような症状を起こした鳥にこの物質を与えると、鳥は回復した。同じ年の12月に東京化学会で発表し、翌年論文にした。物質ははじめ「アベリ酸」と呼ばれ、のちに稲の学名にちなんで「オリザニン」と名づけられた(脚気とビタミンの発見)。
鈴木の主張の核心は、一つの薬を見つけたことではなかった。タンパク質、脂肪、炭水化物、ミネラルのほかに、ごくわずかな量で生命に欠かせない物質が食べ物の中にあり、それが足りないと病気になる、というのである。これは当時の栄養学の枠組みそのものを塗り替える考えだった。
しかし、日本の医学界の多くはこれを受け入れなかった。農学者が医学の領分に口を出すことへの反発もあったと言われる。そして国際的には、別の名前が勝った。1911年、ロンドンで研究していたポーランド出身のカジミール・フンクが、やはり米糠から似た物質を取り出し、翌年、この種の物質を生命に必要なアミンという意味で「ビタミン」と呼ぶことを提案した。のちにすべてがアミンではないと分かったが、名前は残った。
鈴木の仕事が世界で埋もれた理由は、いくつか挙げられている。最初の論文は日本語で書かれていた。1912年にドイツの学術誌に出た訳文からは、これは新しい栄養素だという大事な一文が抜け落ちていたとされ、ドイツ語の読者には、日本人が脚気に効く物質を見つけたという限られた報告として読まれた。そのうえ「オリザニン」という名は稲に特有の物質のように響き、「ビタミン」は広い概念を指す名前だった。
鈴木は先取権を声高に争わず、研究を続けた。米を酒造りに使わずにすむよう、米を使わない合成の清酒を研究し、やがて商品化された。理化学研究所でも研究室を率い、ビタミンAの研究や、飼料、肥料、栄養の研究を進め、多くの弟子を育てた。同じ理化学研究所には、うま味を見つけた池田菊苗もいた。戦争が始まって食料が乏しくなると、代用の食べ物や栄養の研究に駆り出された。1943年9月20日、69歳で死んだ。
1929年のノーベル生理学・医学賞は、エイクマンと、イギリスのホプキンズに贈られた。鈴木もフンクも受けていない。ノーベル賞の選考の記録によれば、鈴木は何度か候補として推薦されていた。もっとも、鈴木が取り出した物質は純粋な結晶ではなかった。脚気を防ぐ成分(ビタミンB1)が結晶として取り出されたのは1926年、その構造が決まり合成されたのは1936年のことで、誰を発見者とするかは、もともと単純には答えられない問いでもある。
鈴木の名は、日本の科学史では、先取権を逃した例として、成果を国際的な言葉ではっきり示すことの大切さの教訓とともに語られることが多い。だが、日本人が実際に食べているものを科学で調べ、その暮らしを良くするという彼の願いは果たされた。ビタミンB1を補った米が作られ、食事が豊かになった日本で、脚気はほとんど見られない病になった。