できごと

メンデルのエンドウの論文

Mendel's Paper on Plant Hybridization
AD1866年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国Turanペルシアポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスNejdモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国オマーンTripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1866年ブルノ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1866年の版図を描いています(26勢力)。

概要

修道院の庭で8年、二万を超える株を数えた。結果は地方の学会誌に載ったきり、35年ほとんど読まれない。

場所

ブルノ
49.20°N 16.61°E · チェコ・モラヴィア

関わった人(1)

グレゴール・メンデルAD1822年7月20日–AD1884年1月6日 · 著者

本文

1866年、オーストリア帝国のブリュン(いまのチェコのブルノ)で、地元の自然科学会の紀要に一本の論文が載った。題は「植物の雑種に関する実験」。著者は、町の修道院の修道士グレゴール・メンデルだった。遺伝の法則を初めて明らかにしたこの論文は、それから35年近く、ほとんど誰にも顧みられなかった。

メンデルは1822年、シレジア地方の小さな農家に生まれた。成績は良かったが、家は貧しく、学問を続けるために、1843年、ブリュンの聖トマス修道院に入った。この修道院は、学問に熱心な修道士たちが集まることで知られ、修道院長も農業や植物の改良に関心を持っていた。メンデルはウィーン大学に送られ、物理学や数学、植物学を学んだ。高校の教師になる試験には受からなかったが、ここで身につけた、実験を組み立て、結果を数で扱う考え方が、後の仕事を支えた。

グレゴール・メンデルの肖像
グレゴール・メンデルの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

当時、子が親に似る仕組みは謎だった。広く信じられていたのは、両親の性質が子の中で混ざり合う、という考えである。赤い絵の具と白い絵の具を混ぜれば桃色になるように。だが、それでは説明のつかないことも多かった。祖父母の性質が、親を飛ばして孫に現れることがある。

1856年頃、メンデルは修道院の庭の一角で、エンドウを使った実験を始めた。エンドウは育てやすく、一つの花の中で受粉するので、人の手で花粉を付けかえれば、どの親とどの親を掛け合わせたかを確実に管理できる。

修道士姿のグレゴール・メンデル
修道士姿のグレゴール・メンデルWikimedia Commons Bateson, William · Public domain

メンデルの工夫は、まず性質の選び方にあった。豆の形が丸いかしわがあるか。豆の色が黄色か緑か。背が高いか低いか。花の色、さやの形と色、花の付く位置。はっきりと二つに分かれ、中間の形が出ない七つの性質を選んだ。もし、どちらともつかない形が出る性質を選んでいたら、規則は見えなかっただろう。

丸い豆の株と、しわのある豆の株を掛け合わせると、子の代はすべて丸い豆になった。しわの性質は消えたように見える。ところが、その子どうしを掛け合わせると、孫の代には、しわのある豆が再び現れた。メンデルは、それを数えた。丸い豆5474個に対し、しわのある豆1850個。ほぼ3対1である。ほかの六つの性質でも、同じように3対1に近い比が出た。

グレゴール・メンデルの胸像
グレゴール・メンデルの胸像Wikimedia Commons Michal Maňas · CC BY 3.0

メンデルはこれを、次のように説明した。性質は、混ざり合う液体ではなく、それぞれの親から一つずつ受け取る、分かれた粒のような単位で伝わる。二つのうち一方が現れやすく、もう一方は隠れる。隠れても消えるわけではなく、次の代で再び組み合わせが変われば、また現れる。この単位が、後に遺伝子と呼ばれるものである。さらに、二つの性質を同時に調べ、豆の形と色が互いに関係なく、別々に受け継がれることも示した。

実験は8年ほど続き、育てて調べた株はのべ2万を超えた。生物の世界に、数と確率を持ち込んだ。それがメンデルの新しさだった。

1864年のブルノ実科学校の教員たちと写るメンデル(右から2番目、「2」と記載。「1」はアレクサンダー・ザヴァツキー)
1864年のブルノ実科学校の教員たちと写るメンデル(右から2番目、「2」と記載。「1」はアレクサンダー・ザヴァツキー)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1865年の2月と3月、メンデルはブリュンの自然科学会で二回にわたって発表し、翌年、論文が紀要に載った。紀要はヨーロッパ各地の学会や大学に送られた。メンデルは別刷りを作り、名の知られた学者にも送っている。読まれなかったというより、読んでも、その意味が分からなかったのだろうとする見方がある。植物学者たちは、数式の並ぶ論文に慣れていなかった。混ざり合う遺伝という考えが当たり前だったため、分かれたまま伝わるという発想を受け止める土台が無かった。

ミュンヘンの有名な植物学者ネーゲリは、メンデルと手紙を交わし、別の植物、ヤナギタンポポで試してみるよう勧めた。メンデルはそれに従ったが、規則は再現できなかった。この植物は、受粉せずに種を作ることが多いという、当時は知られていなかった性質を持っていた。

メンデルの法則による遺伝の仕組みの図解
メンデルの法則による遺伝の仕組みの図解Wikimedia Commons explorebiology · CC BY 4.0

1868年、メンデルは修道院長に選ばれ、修道院の運営に追われるようになった。修道院にかけられた税をめぐって政府と争い、研究からは離れていった。1884年に死んだとき、彼の論文が持つ意味を知る人はいなかった。

1900年、オランダのド・フリース、ドイツのコレンス、オーストリアのチェルマクの三人が、それぞれ別々に同じ法則にたどり着き、先行する研究を探して、メンデルの論文を見つけた。メンデルの名は、一夜にして遺伝学の祖のものになった。チャールズ・ダーウィンの進化論は、性質がどう伝わるのかを説明できないという弱点を抱えていたが、20世紀の前半、メンデルの遺伝の考えと結びつけられて、現代の進化論の土台が作られた。

その後、メンデルの数字はあまりにも3対1にきれいに合いすぎている、と統計学者に指摘されたこともある。都合の悪い結果を省いたのではないかという疑いである。この点は今も議論があるが、法則そのものの正しさは揺らいでいない。メンデルが数えた見えない単位は、1953年にDNAの二重らせんとして形が明らかになり、2003年にはヒトゲノム計画で人の全文が読まれた。

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