メンデルのエンドウの論文
概要
修道院の庭で8年、二万を超える株を数えた。結果は地方の学会誌に載ったきり、35年ほとんど読まれない。
場所
49.20°N 16.61°E · チェコ・モラヴィア
関わった人(1)
グレゴール・メンデルAD1822年7月20日–AD1884年1月6日 · 著者本文
1866年、オーストリア帝国のブリュン(いまのチェコのブルノ)で、地元の自然科学会の紀要に一本の論文が載った。題は「植物の雑種に関する実験」。著者は、町の修道院の修道士グレゴール・メンデルだった。遺伝の法則を初めて明らかにしたこの論文は、それから35年近く、ほとんど誰にも顧みられなかった。
メンデルは1822年、シレジア地方の小さな農家に生まれた。成績は良かったが、家は貧しく、学問を続けるために、1843年、ブリュンの聖トマス修道院に入った。この修道院は、学問に熱心な修道士たちが集まることで知られ、修道院長も農業や植物の改良に関心を持っていた。メンデルはウィーン大学に送られ、物理学や数学、植物学を学んだ。高校の教師になる試験には受からなかったが、ここで身につけた、実験を組み立て、結果を数で扱う考え方が、後の仕事を支えた。

当時、子が親に似る仕組みは謎だった。広く信じられていたのは、両親の性質が子の中で混ざり合う、という考えである。赤い絵の具と白い絵の具を混ぜれば桃色になるように。だが、それでは説明のつかないことも多かった。祖父母の性質が、親を飛ばして孫に現れることがある。
1856年頃、メンデルは修道院の庭の一角で、エンドウを使った実験を始めた。エンドウは育てやすく、一つの花の中で受粉するので、人の手で花粉を付けかえれば、どの親とどの親を掛け合わせたかを確実に管理できる。

メンデルの工夫は、まず性質の選び方にあった。豆の形が丸いかしわがあるか。豆の色が黄色か緑か。背が高いか低いか。花の色、さやの形と色、花の付く位置。はっきりと二つに分かれ、中間の形が出ない七つの性質を選んだ。もし、どちらともつかない形が出る性質を選んでいたら、規則は見えなかっただろう。
丸い豆の株と、しわのある豆の株を掛け合わせると、子の代はすべて丸い豆になった。しわの性質は消えたように見える。ところが、その子どうしを掛け合わせると、孫の代には、しわのある豆が再び現れた。メンデルは、それを数えた。丸い豆5474個に対し、しわのある豆1850個。ほぼ3対1である。ほかの六つの性質でも、同じように3対1に近い比が出た。

メンデルはこれを、次のように説明した。性質は、混ざり合う液体ではなく、それぞれの親から一つずつ受け取る、分かれた粒のような単位で伝わる。二つのうち一方が現れやすく、もう一方は隠れる。隠れても消えるわけではなく、次の代で再び組み合わせが変われば、また現れる。この単位が、後に遺伝子と呼ばれるものである。さらに、二つの性質を同時に調べ、豆の形と色が互いに関係なく、別々に受け継がれることも示した。
実験は8年ほど続き、育てて調べた株はのべ2万を超えた。生物の世界に、数と確率を持ち込んだ。それがメンデルの新しさだった。

1865年の2月と3月、メンデルはブリュンの自然科学会で二回にわたって発表し、翌年、論文が紀要に載った。紀要はヨーロッパ各地の学会や大学に送られた。メンデルは別刷りを作り、名の知られた学者にも送っている。読まれなかったというより、読んでも、その意味が分からなかったのだろうとする見方がある。植物学者たちは、数式の並ぶ論文に慣れていなかった。混ざり合う遺伝という考えが当たり前だったため、分かれたまま伝わるという発想を受け止める土台が無かった。
ミュンヘンの有名な植物学者ネーゲリは、メンデルと手紙を交わし、別の植物、ヤナギタンポポで試してみるよう勧めた。メンデルはそれに従ったが、規則は再現できなかった。この植物は、受粉せずに種を作ることが多いという、当時は知られていなかった性質を持っていた。

1868年、メンデルは修道院長に選ばれ、修道院の運営に追われるようになった。修道院にかけられた税をめぐって政府と争い、研究からは離れていった。1884年に死んだとき、彼の論文が持つ意味を知る人はいなかった。
1900年、オランダのド・フリース、ドイツのコレンス、オーストリアのチェルマクの三人が、それぞれ別々に同じ法則にたどり着き、先行する研究を探して、メンデルの論文を見つけた。メンデルの名は、一夜にして遺伝学の祖のものになった。チャールズ・ダーウィンの進化論は、性質がどう伝わるのかを説明できないという弱点を抱えていたが、20世紀の前半、メンデルの遺伝の考えと結びつけられて、現代の進化論の土台が作られた。
その後、メンデルの数字はあまりにも3対1にきれいに合いすぎている、と統計学者に指摘されたこともある。都合の悪い結果を省いたのではないかという疑いである。この点は今も議論があるが、法則そのものの正しさは揺らいでいない。メンデルが数えた見えない単位は、1953年にDNAの二重らせんとして形が明らかになり、2003年にはヒトゲノム計画で人の全文が読まれた。