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Event / できごと

盧溝橋事件

Marco Polo Bridge Incident
AD1937年7月7日
重要度 5

概要

北京の南西の橋の近くで夜間演習中の日本軍に、銃声。兵が1人いない(用便で、戻った)。翌朝、戦闘。現地で停戦したのに、東京が3個師団を送り、蒋介石が「最後の関頭」と言った。日中戦争。8年。誰が最初に撃ったか、いまも分からない。8月、上海。12月、南京。

場所

北京
39.90°N 116.41°E · 中国

関わった人(1)

蒋介石AD1887年10月31日–AD1975年4月5日 · 最後の関頭

本文

1901年の北京議定書で、日本は北京と天津に駐屯軍を置く権利を持った。1936年、5000人に増やした。豊台に大隊。北京の南西15キロ、永定河の盧溝橋(マルコ・ポーロが「世界で最も美しい橋」と書いた)。橋の東の宛平県城に、中国の第29軍(宋哲元)。

1937年7月7日、夜。日本の第1連隊第3大隊第8中隊(清水節郎中隊長、135人)が、盧溝橋の北の荒地で夜間演習。午後10時40分頃、銃声(実弾。空砲の演習の中で)。点呼で1人いない(志村菊次郎二等兵。用便で、20分後に戻った)。清水は大隊長一木清直に報告し、一木は連隊長牟田口廉也に電話し、牟田口は「戦闘してよし」。7月8日午前3時25分、また銃声。午前5時、日本軍が宛平県城を攻撃した。中国軍が撃ち返した。

現地で、7月11日、停戦協定。中国側が謝罪、責任者の処分、盧溝橋から撤兵。宋哲元は戦争を望まなかった。

同じ7月11日、東京。近衛文麿内閣が「北支派兵」を閣議決定。内地の3個師団と朝鮮、満洲から。「事件の不拡大」と言いながら。石原莞爾(参謀本部作戦部長)は反対した。「ソ連に備えろ。中国と戦えば泥沼だ」。武藤章らが「一撃で中国は屈する」。石原は負けた。

7月17日、廬山。蒋介石の談話。「最後の関頭に至れば、徹底抗戦するしかない。中途で妥協はない」。7月28日、日本軍が北京と天津を攻撃。8月13日、上海。第二次上海事変。3か月、日本軍の死傷者4万。11月、南京へ。12月13日、南京。

8年。日本の死者は中国で50万。中国の死者は1400万から2000万(推定に幅がある)。1945年8月15日。

誰が最初に撃ったか。中国側(宋哲元の兵か、共産党の学生兵か)、日本側(謀略)、偶発。日本の研究の主流は「偶発。しかし、拡大したのは日本の意志」。中国の公式の歴史は「日本の計画的な侵略の開始」。7月7日は中国の「抗戦記念日」。1987年、盧溝橋の横に「中国人民抗日戦争記念館」。

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