盧溝橋事件
概要
北京の南西の橋の近くで夜間演習中の日本軍に、銃声。兵が1人いない(用便で、戻った)。翌朝、戦闘。現地で停戦したのに、東京が3個師団を送り、蒋介石が「最後の関頭」と言った。日中戦争。8年。誰が最初に撃ったか、いまも分からない。8月、上海。12月、南京。
場所
39.90°N 116.41°E · 中国
関わった人(1)
蒋介石AD1887年10月31日–AD1975年4月5日 · 最後の関頭本文
北京の南西およそ15キロ、永定河に架かる石の橋が盧溝橋である。12世紀の末に造られ、欄干に並ぶ数百の獅子の彫刻で知られる。13世紀にこの地を訪れたマルコ・ポーロが見事な橋として書き残したため、西洋では「マルコ・ポーロ橋」と呼ばれる。1937年7月7日の夜、この橋の近くで鳴った銃声が、8年にわたる日中戦争の始まりになった。
日本の軍隊がなぜ北京の近くにいたのか。1900年の義和団の乱のあと、翌1901年に列強と清が結んだ北京議定書で、各国は北京と天津のあいだに軍を置く権利を得た。日本はこれを根拠に「支那駐屯軍」を置き、1936年にはその兵力を5千人あまりへ大きく増やして、北京の南西の豊台にも部隊を置いた。1931年の満洲事変で満洲を手に入れた日本は、その南の華北にも親日の政権を作って勢力を広げようとしていた。橋の東のたもとの宛平県城には、宋哲元が率いる中国の第29軍がいた。中国側では、1936年12月の西安事件をきっかけに、国民党と共産党が内戦をやめて日本に当たる方向へ動き始めていた。

1937年7月7日の夜、豊台の日本軍第1連隊第3大隊の第8中隊が、清水節郎中隊長のもと、盧溝橋の北の荒れ地で夜間演習をしていた。午後10時40分ごろ、どこからか実弾の音が響いた。演習は空砲で行われていた。点呼をとると、兵が1人足りなかった。この兵は用便に行っていただけで、20分ほどで戻ってきたが、知らせはすでに大隊長の一木清直へ、さらに連隊長の牟田口廉也へと伝わっていた。翌8日の明け方、再び銃声があり、牟田口は攻撃を許した。午前5時半ごろ、日本軍は中国軍への攻撃を始め、中国軍も撃ち返した。
現地では拡大を避ける動きもあった。宋哲元は日本との全面戦争を望んでおらず、11日には現地の日本軍と第29軍のあいだで、中国側の謝罪、責任者の処分、盧溝橋周辺からの中国軍の撤退を約束する停戦の取り決めが結ばれた。

ところが同じ11日、東京の近衛文麿内閣は、華北へ兵を送ることを閣議で決め、これを「重大決意」として公表した。表向きは「事件の不拡大」を言いながら、国内から3個師団を送る準備を進め、関東軍と朝鮮軍からも部隊を出させた。陸軍の中でも意見は割れていた。参謀本部の作戦部長だった石原莞爾は、本当に備えるべき相手はソ連であり、中国と戦えば泥沼にはまると考えて拡大に反対した。これに対し作戦課長の武藤章らは、一撃を加えれば中国はすぐ屈服すると主張した。石原の主張は通らず、彼はこの年の秋に参謀本部を去った。
国内の新聞も、中国側の不法を大きく書き立てた。乱暴な中国を懲らしめよという意味の「暴支膺懲」という言葉が広まり、世論は強硬な方へ傾いていった。政府と軍の拡大派は、この空気にも押されていた。

中国の側も、もう引かなかった。7月17日、国民政府の指導者蒋介石は江西省の廬山で談話を発表し、もし「最後の関頭」に至れば、犠牲を払っても徹底して抗戦するほかないと述べた。満洲事変以来、譲歩を重ねてきた中国の世論は、これ以上の妥協を許さなくなっていた。
7月28日、日本軍は北京と天津一帯で総攻撃を始め、数日で両都市を占領した。8月13日には戦火が上海に飛び、3か月に及ぶ激しい市街戦になった。日本軍の死傷者は4万人を超え、中国軍は精鋭の部隊の多くを失った。上海が落ちると日本軍は退く中国軍を追って首都南京へ進み、12月13日に南京を占領した。占領のさなかに捕虜や市民への大規模な殺害が起きた(南京事件)。宣戦布告のないまま始まったこの戦争を、日本政府は当初「北支事変」、まもなく「支那事変」と呼んだ。

戦争は日本の指導者たちが見込んだようには終わらなかった。国民政府は首都を内陸の重慶へ移して抗戦を続け、日本軍は点と線を押さえるだけで、広大な中国を屈服させることはできなかった。行き詰まった日本は、資源を求めて南へ向かい、1941年の真珠湾攻撃で戦争はアジアと太平洋の全体に広がる。終わったのは1945年8月、日本の降伏(玉音放送)によってである。中国での日本兵の死者はおよそ45万から50万人とされる。中国の死者については、1千万人あまりから2千万人を超えるものまで推計に大きな幅がある。
あの夜、最初の一発を撃ったのは誰だったのか。今も分かっていない。中国の第29軍の兵士の発砲、その中に紛れていた共産党系の者の発砲、日本側の謀略、あるいはどちらにも意図のない偶発の発砲、とさまざまな説がある。日本の研究者の間では、最初の発砲は偶発か不明だが、それを全面戦争にまで広げたのは日本の政府と軍の判断だった、とみる見方が有力である。中国では、日本の計画的な侵略の始まりとして記憶されている。

中国では7月7日は抗日戦争の始まりの日として記念され、1987年には宛平県城の中に中国人民抗日戦争記念館が開かれた。盧溝橋そのものは今も残り、欄干の獅子たちは、800年あまり前と同じように永定河を見下ろしている。