ブレスト・リトフスク条約

概要
レーニンは戦争を終えるためにドイツの条件を全部飲んだ。ポーランド、バルト、ウクライナ、フィンランド。人口の3分の1、耕地の半分、工業の半分。トロツキーは「戦争でも平和でもない」と席を立ち、ドイツが進軍して、飲んだ。8か月後、ドイツが負けて紙になった。
場所
52.10°N 23.69°E · ベラルーシ
関わった人(1)
レーニンAD1870年4月22日–AD1924年1月21日 · 飲んだ本文
1917年11月、ペトログラードで権力を握ったボリシェヴィキの政府は、その翌日、「平和に関する布告」を出した。すべての交戦国に、領土を奪わず賠償も取らない講和を、ただちに結ぶよう呼びかけるものだった。兵士たちは土地とパンと平和を約束されて革命を支持しており、ロシアの軍はもう戦える状態になかった。連合国はこの呼びかけに応じず、ドイツとオーストリアを中心とする同盟国だけが話し合いに乗ってきた。12月に休戦が結ばれ、12月22日、いまのベラルーシとポーランドの境にあるブレスト・リトフスクの要塞の町で、講和の交渉が始まった。ドイツの東部戦線の司令部が置かれていた場所である。
ロシアの代表団は、ヨッフェに率いられ、兵士や労働者や農民の代表まで連れて乗り込んだ。ドイツの外相キュールマンは、無併合の原則に賛成してみせたが、東部軍の参謀長ホフマン将軍が地図を広げて本音を明かした。ドイツ軍が占めているポーランド、リトアニア、ラトヴィアの西部は、住民がすでに民族の自決によってロシアから離れることを選んだ、というのである。1918年1月から交渉の席に着いた外務人民委員のトロツキーは、交渉を引き延ばし、ドイツやオーストリアで革命が起きるのを待とうとした。その間にウクライナの民族政府が独自の代表を送り、2月9日、同盟国はウクライナと別に講和を結んだ。飢えに苦しむドイツとオーストリアがウクライナの穀物を求めたことから、「パンの講和」とも呼ばれる。

ボリシェヴィキの中では意見が三つに割れた。レーニンは、軍が無い以上、どんな条件でも飲んで革命の政府を守るべきだと説いた。ブハーリンら左派は、帝国主義との妥協を拒み、革命の戦争を続けよと主張した。トロツキーは、戦争はやめるが講和にも署名しない、という中間の道を唱えた。1月の党の幹部の集まりでの票は、レーニンの案が15、トロツキーの案が16、革命戦争が32だった。
2月10日、トロツキーは交渉の席で、ロシアは戦争をやめて軍を解く、だが併合の講和には署名しない、と宣言して席を立った。ホフマンは、聞いたこともないやり方だと呆れたという。ドイツの答えは速かった。2月18日、ドイツ軍は進撃を再開し、ほとんど抵抗を受けないまま鉄道に沿って数日で何百キロも進んだ。レーニンは、署名しなければ辞任すると党の中央委員会に迫り、ようやく受け入れが決まった。ドイツは前よりも重い条件を突きつけてきた。

3月3日、ロシアの代表ソコリニコフは、条件をいちいち論じるまでもないとして、そのまま署名した。ロシアは、ポーランド、リトアニア、ラトヴィア、エストニアへの権利を手放し、フィンランドとウクライナから軍を引き、南のカルス、アルダハン、バトゥミをオスマン帝国に渡した。失ったのは、旧ロシア帝国の人口の3分の1、耕地の3分の1、工業の半分、炭鉱の9割ほどとされる。夏の追加の取り決めでは、60億マルクの賠償も約束させられた。ドイツ軍が近くまで迫ったことから、政府は3月に都をペトログラードからモスクワに移した。
党の大会でレーニンは、この講和を一息つくための休みだと説明した。それでも反発は大きく、政府に加わっていた左派エスエルは抗議して政府を去り、7月にはドイツの大使ミルバッハを暗殺した。ロシアは、白軍と赤軍が争うロシア内戦へと落ちていく。一方、ドイツは東部の戦線から兵を西へ移して春の大攻勢に賭けたが、ウクライナの穀物を取り立てるためにも多くの兵を東に残さねばならず、攻勢は失敗に終わった。

1918年11月11日、ドイツは連合国と休戦を結び、ソヴィエト政府は11月13日、この条約を破棄した。条約が生きていたのは8か月あまりにすぎない。レーニンの判断は正しかった、と後のソヴィエトの歴史は語った。ただし、紙切れになったのはドイツが西部戦線で負けたからで、レーニンがそれを見通していたわけではない、とみる人も多い。
条約で手放した土地のうち、ウクライナや南カフカスは内戦の中で赤軍に取り戻されたが、フィンランドの独立を果たしたフィンランド、ポーランド、そしてバルトの三国は独立を守った。バルトの三国がソ連に併合されたのは、1940年のことである。ブレスト・リトフスクの要塞は、1941年6月22日、ドイツがソ連に攻め込んだ独ソ戦の始まりで、最初に攻撃を受けた場所の一つになった。