人物

パウルス

Friedrich Paulus
AD1890年9月23日 – AD1957年2月1日(享年66)
ドイツ重要度 3

概要

参謀出身の第6軍司令官。スターリングラードで包囲され、ヒトラーは降伏を禁じて元帥にした。「ドイツの元帥は降伏しない」。翌日、降伏した。ソ連の捕虜としてナチスを批判する放送をし、ニュルンベルクで証言した。東ドイツのドレスデンで死んだ。

関わったできごと(1)

スターリングラードの戦いAD1942年8月23日 · 降伏

本文

1890年9月23日、ドイツ中部ヘッセンの小さな町グックスハーゲンで、会計係の家に生まれた。名前に貴族を示す「フォン」は付かない。英語圏ではしばしば「フォン・パウルス」と誤って書かれたが、彼は軍の高官の多くを占めた貴族の出ではなく、中流の家の子だった。海軍の士官を志したが受け入れられず、大学で法律を少し学んだのち、1910年に陸軍に入った。1912年、ルーマニアの貴族の娘エレナ・ロゼッティ=ソレスクと結婚している。

第一次世界大戦では主に参謀として働き、戦後も参謀畑を歩いた。仕事ぶりは几帳面で、身なりにも気を配り、書類を完璧に整える有能な参謀として評価された。反面、自ら決断を下すことを好まず、上の命令に忠実すぎるとも見られていた。第二次世界大戦が始まると、ライヒェナウ将軍の軍の参謀長としてポーランドと西方の戦いに加わり、1940年9月には参謀本部の次長(作戦担当)となった。この立場で、ソ連への侵攻作戦、のちのバルバロッサ作戦の計画づくりに深く関わった(独ソ戦の始まり)。

1942年1月、第6軍の司令官ライヒェナウが急死し、パウルスがその後を継いだ。実戦部隊を率いた経験のない参謀が、いきなり30万近い兵を持つ大軍の指揮官になったのである。5月、ハリコフでソ連軍の攻勢を包囲して打ち破り、名声を得た。夏、第6軍は南ロシアの草原を東へ進み、8月、ヴォルガ川のほとりの工業都市スターリングラードに達した。ソ連の指導者スターリンの名を冠したこの都市は、ヒトラーにとっても譲れない象徴となり、市街の一軒一軒、工場の一つ一つを奪い合う戦いが続いた(スターリングラードの戦い)。

スターリングラードの戦いに関わる図版:Расчет советской 76,2-мм пушки ЗиС-3 ведет огонь в Сталинграде. Ноябрь 1942 г
スターリングラードの戦いWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1942年11月19日、ソ連軍は第6軍の両側を守っていたルーマニア軍の弱い戦線を突き破り、11月23日、第6軍を中心とする25万から30万の兵を包囲した。この反攻を計画した一人がジューコフである。パウルスは、すぐに南西へ包囲を破って脱出することを許してほしいとヒトラーに求めた。ヒトラーはこれを禁じ、その場で守り抜くよう命じた。空軍のゲーリングは、空から物資を送り続けられると請け合った。部下のザイドリッツ将軍は、命令に背いてでも脱出すべきだと迫ったが、パウルスは命令に従う道を選んだ。12月、マンシュタインの救援軍が包囲の外から近づいたときも、ヒトラーの許しがないまま脱出を試みることはなかった。

空からの補給は、必要な量のごく一部しか届かなかった。零下30度の冬の中で、兵士たちは飢えと寒さと病で倒れていった。1943年1月8日、ソ連軍は降伏を勧告したが、パウルスはこれを退けた。1月30日、ヒトラーはパウルスを元帥に昇進させた。ドイツの元帥が降伏したことはこれまで一度もない。昇進は、最後まで戦うか、自ら命を絶てという無言の命令だった。

翌1月31日、パウルスは司令部を置いていた百貨店の地下室で、ソ連軍に降伏した。2月2日には北の地区の部隊も降伏し、戦いは終わった。捕虜となったドイツ兵はおよそ9万1000人で、その多くが収容所への行軍や収容所で死に、戦後ドイツに帰れたのは6000人ほどだったとされる。ヒトラーは、パウルスは自決すべきだったと激怒した。

捕虜になったパウルスは、はじめソ連側の働きかけを拒んだ。しかし1944年7月、ヒトラー暗殺未遂事件のあとで知人の将校たちが次々に処刑されると、考えを変えた。8月、ソ連の後押しで作られたドイツ人将校の反ナチ組織に加わり、ラジオでドイツ国民と兵士に、ヒトラーを見限るよう呼びかけた。これを受けて、ドイツに残った妻は連座の扱いを受けて監視下に置かれた。息子の一人は、この年の初めにイタリアの戦線で戦死していた。

1946年2月、パウルスはニュルンベルク裁判に、ソ連側の証人として突然姿を現し、ソ連への侵攻は計画された侵略戦争だったと証言した。かつて自分が計画に関わった作戦である。その後もソ連に留め置かれ、1953年、ようやく釈放されて東ドイツのドレスデンに住んだ。妻は1949年に亡くなっていて、再会はかなわなかった。東ドイツでは、新しく作られた軍の前身である警察部隊の講師を務め、スターリングラードの戦いについての研究を続け、自分の行動を弁明する文章を書いた。

1957年2月1日、ドレスデンで死んだ。66歳。体の筋肉が衰えていく病だった。スターリングラードで北の部隊が降伏してから14年後の、ほぼ同じ日である。遺体は西ドイツのバーデン=バーデンに運ばれ、妻の隣に葬られた。

パウルスへの評価は厳しい。11月に命令に背いて脱出していれば、多くの兵が救われたかもしれない。降伏を勧告された1月に応じていれば、その後の数週間の死は避けられたかもしれない。命令に忠実であることを軍人の第一の務めとした男は、元帥への昇進の翌日に降伏することで、ようやく一度だけヒトラーの意に背いた。その忠実さが、30万の兵の運命を決めたとも言える。

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