ソンムの戦い

概要
7日間の砲撃のあと、イギリスの新軍が横一列で歩いて出た。初日に5万7000人が倒れ、1万9000人が死んだ。イギリス軍史上最悪の一日。9月、戦車が初めて出た。11月まで。100万人の死傷者で、前線は10キロ動いた。「失われた世代」の言葉はここから。
場所
50.00°N 2.65°E · フランス
本文
1916年7月1日の朝7時30分、フランス北部ソンム川の北の丘陵地帯で、イギリス軍の兵士たちが一斉に塹壕から出て、ドイツ軍の陣地に向かって歩き始めた。この日だけで、イギリス軍は5万7000人あまりの死傷者を出し、そのうち1万9000人あまりが死んだ。イギリス軍の歴史上、最も多くの犠牲を出した一日である。戦いはこの日から11月まで続き、両軍合わせて100万人を超える死傷者を出しながら、前線はおよそ10キロしか動かなかった。
第一次世界大戦が始まって2年近く、西部戦線は、スイス国境から北海まで続く塹壕の線で膠着していた。機関銃と鉄条網と砲兵に守られた塹壕を、歩兵の突撃で破ることはほとんど不可能になっていた。1915年にはイーペルの毒ガスで毒ガスまで使われたが、塹壕の線は破れなかった。地中海のガリポリの戦いで戦線の外から局面を変えようとした英仏の試みも、失敗に終わっていた。1915年の暮れ、イギリスとフランスの指導者たちは、翌年の夏にソンム川の両岸で共同の大攻勢をかけることを決めた。ところが1916年2月、ドイツ軍がフランスの要塞都市ヴェルダンを攻撃し、フランス軍は大量の兵をヴェルダンに注ぎ込まなければならなくなった。ソンムの攻勢は、ヴェルダンのフランス軍の負担を軽くするためにも、イギリス軍が主役となって行うことになった。

イギリス軍の総司令官ダグラス・ヘイグは、ドイツ軍の陣地を突破し、その穴から騎兵を送り込んで戦線を動かすことを夢見ていた。攻撃の主力となったのは、開戦後に陸軍大臣キッチナーの呼びかけに応じて志願した市民たちで編成された「新軍」だった。中には、同じ町や同じ職場、同じサッカーチームの仲間が、一緒に戦えるならと誘い合って志願した部隊もあった。「パルズ大隊」(仲間の大隊)と呼ばれた部隊である。
攻撃の前に、イギリス軍は6月24日から1週間にわたって、150万発ともいわれる砲弾をドイツ軍の陣地に撃ち込んだ。これだけ撃てば鉄条網はちぎれ、塹壕の中のドイツ兵は生き残っていないはずだと、兵士たちは聞かされていた。しかし、砲弾の多くは鉄条網を切るのに向かない種類で、不発弾も多かった。ドイツ軍は白亜質の地面を深く掘って、地下10メートル近い頑丈な退避壕を作っており、兵士たちはその中で砲撃を耐えた。

7月1日、攻撃開始の直前、ドイツ軍の陣地の下まで掘り進めたトンネルに仕掛けた巨大な地雷がいくつも爆発した。その一つ、ラ・ボワッセルの地雷の跡は、いまも巨大な穴として残っている。砲撃がやむと、ドイツ兵たちは地下壕から駆け上がり、機関銃を据えた。重い装備を背負って無人地帯を進んでくるイギリス兵は、正面と横からの機関銃の射撃になぎ倒された。整然と歩いて進めと命じられた部隊もあったが、走って突っ込んだ部隊もあり、どちらも多くが鉄条網の手前で倒れた。南側で戦ったフランス軍は、より慎重な戦術と強力な砲兵で目標を奪ったが、北のイギリス軍の大半は、ほとんど前進できなかった。
パルズ大隊の悲劇は、イギリスの町々を打ちのめした。イングランド北部の小さな町アクリントンの大隊は、この朝、出撃した700人あまりのうち、600人近くが死傷した。同じ町の若者たちが、同じ朝に、同じ野原で倒れたのである。何週間かのうちに、町じゅうの家に戦死の知らせが届いた。当時はイギリスの自治領だったニューファンドランド(いまはカナダの一部)の連隊は、ボーモン=アメルで800人ほどが攻撃に出て、翌朝の点呼に答えられたのは68人だったとされる。

それでもヘイグは攻撃を続けた。7月14日には夜明け前の奇襲でドイツ軍の第2線の一部を奪い、オーストラリア軍やカナダ軍、ニュージーランド軍、南アフリカ軍なども次々に戦場に投入された。9月15日、フレール=クルスレットの戦いで、イギリス軍は新兵器の戦車を初めて実戦に使った。マーク1と呼ばれる菱形の戦車は、50両足らずが用意されたが、故障や泥のために、実際に攻撃に加われたのはその一部だった。戦車はドイツ兵を驚かせたが、戦いの流れを変えるには至らなかった。
秋になると雨が降り続き、戦場は泥の海になった。11月18日、雪とみぞれの中で、ヘイグはようやく攻勢を打ち切った。141日間の戦いで、イギリス軍とその自治領の軍の死傷者は42万人ほど、フランス軍は20万人ほど、ドイツ軍は40万人から60万人ほどとされる。ドイツ軍の損害の数は、いまも研究者の間で議論が分かれている。英仏軍が奪い返した土地は、最も進んだところで10キロほどだった。

ソンムの戦いの評価は、いまも二つに分かれる。一つは、無謀な作戦で何十万もの若者を死なせた将軍たちの愚かさの象徴とする見方で、ヘイグは「ソンムの屠殺者」と呼ばれた。もう一つは、ソンムでドイツ軍もまた取り返しのつかない損害を受け、ヴェルダンへの圧力も弱まり、イギリス軍はこの戦いで多くを学んで、1918年の勝利につながる戦い方を身につけた、とする見方である。どちらの見方をとっても、7月1日の犠牲の大きさは変わらない。
戦いは、文学にも深い影を残した。詩人のロバート・グレイヴズはソンムで重傷を負い、一時は戦死と伝えられた。ジークフリード・サスーンもソンムで戦い、のちに戦争に反対する声明を出した。のちに『指輪物語』を書くJ・R・R・トールキンも、通信将校としてソンムの塹壕にいた。翌年、ソンムの戦線に加わった詩人ウィルフレッド・オーウェンは、祖国のために死ぬのは甘美で名誉なことだ、という古代ローマの詩人ホラティウスの言葉を「古い嘘」と呼ぶ詩を書いた。オーウェン自身は1918年11月、休戦のわずか1週間前に戦死した。

ソンムの戦場の近く、ティエプヴァルには、巨大な記念門が建てられている。そこには、ソンムの戦場で行方が分からなくなり、墓を持たないイギリスと南アフリカの兵士7万2000人あまりの名が刻まれている。アルベールの町の聖堂の塔の上には、幼子イエスを掲げる黄金の聖母像があった。1915年に砲弾を受けて大きく傾いたまま落ちず、像が落ちたら戦争が終わる、という言い伝えが兵士たちの間に広まった。像は1918年4月、町がドイツ軍の手に落ちたあとの砲撃で落ちた。戦争が終わったのは、その7か月後だった。翌1919年、ヴェルサイユ条約が結ばれた。