できごと

玉音放送

Jewel Voice Broadcast
AD1945年8月15日
重要度 5
大英帝国ソビエト連邦中国モンゴルManchuriaチベットビルマタイ日本ラオスフィリピンカンボジア朝鮮(ソ連軍政)安南Tonkin朝鮮(アメリカ軍政)コーチシナAD1945年8月15日東京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1945年8月15日の版図を描いています(17勢力)。

概要

ポツダム宣言の受諾が決まった8月14日の深夜、宮内省で天皇の朗読が二度録音された。それを奪って放送を止めようとする将校たちが宮城に押し入ったが、円盤は隠されて運び出された。15日正午、全国のラジオが鳴った。多くの国民が天皇の声を聞くのは、これが初めてである。文語で、雑音が多く、「降伏」の語は出てこない。共同宣言を受諾すると述べただけなので、放送のあとにアナウンサーが意味を説明しなければならなかった。戦争の終わりが、声で伝えられた。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

関わった人(1)

昭和天皇AD1901年4月29日–AD1989年1月7日 · 朗読

本文

1945年8月、日本の戦争は終わりの瀬戸際にあった。7月末、連合国は日本に降伏を求めるポツダム会談の宣言を発していたが、日本政府はすぐには応じなかった。8月6日に広島、9日に長崎へ原子爆弾が落とされ(広島・長崎への原爆投下)、その間の8日にはソ連が日本に宣戦し、満洲へ攻め込んだ。9日の深夜から開かれた天皇の前の会議で、政府は天皇の地位を守ることを条件に宣言を受け入れる方針を決め、連合国に伝えた。

連合国からの返事は、天皇の地位について曖昧なものだった。受け入れるか、戦い続けるか。閣僚の意見は割れたまま、8月14日の午前、再び天皇の前で会議が開かれた。最後は昭和天皇が受諾の意思を示し、それに従うという形で決着がつけられた。同じ日、天皇の名で戦争を終える詔書が作られ、夜には連合国に受諾が伝えられた。

Imperial Rescript on the Termination of the War1
Wikimedia Commons 大日本帝國 · Public domain

問題は、それをどう国民と軍に伝えるかだった。紙の布告を出すだけでは、軍が従わないおそれがあった。国内にも海外の戦地にも、まだ何百万という兵士が武器を持っている。徹底抗戦を叫ぶ将校も少なくなかった。天皇自身の声で、直接ラジオから伝えることになった。

8月14日の夜、宮内省の庁舎の一室に、日本放送協会の技術者たちが録音の機材を運び込んだ。午後11時を過ぎたころ、天皇がマイクの前に立ち、詔書を読み上げた。録音は二度行われた。一度目の声が低かった、あるいは読み違えがあったなど、二度録った理由については伝わる話が分かれている。できた録音盤は二組で、侍従の手で宮内省の中の事務室の金庫に収められた。

Imperial Rescript on the Termination of the War2
Wikimedia Commons 大日本帝國 · Public domain

その夜、受諾に反対する陸軍の若い将校たちが動いた。彼らは近衛第一師団の師団長を殺し、偽の命令で兵を動かして皇居を占拠した。狙いの一つは、録音盤を奪い、放送を止めることだった。兵たちは宮内省の建物を探し回ったが、録音盤は見つからなかった。夜明けとともに、東部軍の司令官が反乱を鎮め、首謀者たちは自ら命を絶った。陸軍大臣の阿南惟幾も、この朝、自決している。録音盤は無事に放送局へ運ばれた。

15日の朝、ラジオは、正午に重大な放送があるので必ず聞くようにと繰り返し告げた。昼の放送のために、特別に電気が送られた。正午、工場でも役場でも学校でも、人々が受信機の前に集まった。ラジオを持たない家の人は、隣の家や、町内に一台だけある受信機の前に立った。

Imperial Rescript on the Termination of the War3
Wikimedia Commons 大日本帝國 · Public domain

アナウンサーが、これから重大な放送があると告げ、国歌が流れたあと、録音が再生された。天皇の朗読は4分半ほどだった。国民の多くが天皇の声を聞いたのは、これが初めてである。肖像の写真は学校に掲げられ、天皇は神聖な存在として教えられていたが、その声を耳にしたことのある人はほとんどいなかった。

だが、多くの人には、何を言っているのかがよく分からなかった。電波の状態も受信機の質も悪く、雑音が多かった。そのうえ、詔書は漢語の多い文語で書かれていて、日常の言葉とはかけ離れていた。何より「降伏」や「敗戦」という語が一度も出てこない。詔書は、米英中ソの四国の共同宣言を受諾する旨を通告させた、と述べ、新たに使われた残虐な爆弾に触れ、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」、将来のために平和を開こうと呼びかけていた。

Imperial Rescript on the Termination of the War4
Wikimedia Commons 大日本帝國 · Public domain

朗読が終わると、アナウンサーが詔書をもう一度ふつうの調子で読み上げ、受諾に至る経緯や政府の告諭を伝えた。放送は全体で40分近く続いた。その説明を聞いて、ようやく戦争に負けたのだと分かった人も多かった。

受け止め方はさまざまだった。地面に膝をついて泣き崩れる人がいた。空襲が終わることにほっとした人がいた。負けたとは信じられず、聞き違いだと言い張る人もいた。皇居の前の広場には人々が集まって頭を垂れ、その後の数日のうちに、敗戦の責任を感じて自ら命を絶つ軍人や民間人も出た。

玉音放送を聞く人々
玉音放送を聞く人々Wikimedia Commons (Unknown) · Public domain

戦闘は、放送ですぐに止まったわけではない。満洲や朝鮮北部、南樺太では、ソ連軍の攻撃が続いた。千島列島の占守島では、8月18日になってから激しい戦いが起きている。多くの日本兵や民間人がソ連の捕虜となり、のちにシベリア抑留の苦難を受けた。日本が降伏文書に署名したのは、9月2日、東京湾に浮かぶアメリカの戦艦ミズーリの艦上である。

それでも、日本では8月15日が戦争の終わった日として記憶された。法的な終わりは9月2日であり、戦闘はなお続いていたにもかかわらず、多くの人の記憶の中で、戦争はあの正午の声とともに終わった。戦後、この日は戦没者を追悼し平和を祈る日とされ、毎年正午に黙祷が捧げられている。

8月15日午前中に配布された玉音放送予告の特報(朝日新聞)
8月15日午前中に配布された玉音放送予告の特報(朝日新聞)Wikimedia Commons Asahi Shimbun · Public domain

声は、紙より疑いにくい。布告なら、誰かが勝手に出したものだと言い張ることもできる。だが本人の声は、そう言いにくい。だからこそ、録音盤を奪おうとする者がいた。録音盤は戦後も保管され、2015年には宮内庁が原盤から起こした音声を公開している。

同じ1945年の4月、アメリカでは炉辺談話を続けてきたローズヴェルト大統領が亡くなっていた。アメリカの人々は12年のあいだ、大統領の穏やかな声がラジオから居間に入ってくるのに慣れていた。日本の人々にとって、元首の声はこの一度きりだった。聞いたことのない声が一度だけ流れたことが、その放送を、戦争の終わりを告げる特別な合図にした。翌年の元日、天皇はいわゆる人間宣言を出し、自らが神であることを否定することになる。

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