できごと

ENIAC

ENIAC
AD1946年
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコニカラグアホンジュラスキューバグアテマラAD1946年フィラデルフィア
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1946年の版図を描いています(10勢力)。

概要

ペンシルベニア大学。弾道計算表を作るために陸軍が資金を出した。真空管17468本、重さ27トン、部屋一杯。それまで一発の弾道の計算に人が20時間かけていたものが、30秒になった。配線を差し替えて「プログラム」したのは、6人の女性数学者だった(当時「計算手(コンピューター)」と呼ばれていた職の出身)。彼女たちの名は長く公表されなかった。翌年からノイマン型の記憶プログラム方式へ移る。

場所

フィラデルフィア
39.95°N -75.17°E · アメリカ合衆国・ペンシルベニア州

本文

第二次世界大戦のさなか、アメリカ陸軍のアバディーン試験場(メリーランド州)にある弾道研究所は、大砲の射表を作るのに追われていた。射表とは、この砲を、この角度で、この量の火薬で撃てば、砲弾がどこに落ちるかを並べた表である。空気の抵抗、風、気温、砲身のすり減り、地球の自転まで考えに入れて、弾の飛ぶ道筋を表す方程式を少しずつ数値で解いていく。手回しの計算機を使って、一本の弾道を計算するのに一人で二十時間ほどかかった。射表一冊には、数千本もの弾道が要る。新しい砲が次々に作られ、北アフリカの砂漠のように条件の違う戦場の表も必要になり、計算はまったく追いつかなかった。

計算をしていたのは、主に女性たちだった。大学で数学を学んだ女性が「計算手(コンピューター)」として雇われ、アバディーンとフィラデルフィアのペンシルベニア大学ムーア電気工学校で、百人を超える人々が計算に当たっていた。歯車で動く機械式の解析機も使われたが、速さも精度も足りなかった。

プログラミングされるENIAC
プログラミングされるENIACWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1942年、ムーア校の物理学者ジョン・モークリーは、真空管を使えば計算を桁違いに速くできる、という短い提案書を書いた。その技術的な設計を引き受けたのが、当時まだ二十代前半の大学院生プレスパー・エッカートである。軍は懐疑的だった。真空管はよく切れる。何千本も使えば、数分ごとにどれかが切れて計算が止まるだろう。エッカートは、真空管を決められた値より低い電圧で使って寿命を延ばし、点けたり消したりするときに最も切れやすいので電源を落とさず、品質のよい管を選んで使うことで、この問題に答えた。1943年6月、陸軍との契約が結ばれた。

完成した機械は、のちにエニアックと呼ばれる。使われた真空管は一万七千四百六十八本、抵抗は七万個、手作業のはんだ付けは五百万か所にのぼった。重さは二十七トン、四十枚ほどの大きな箱がコの字形に並んで大部屋を埋め、百五十キロワットの電気を食った。エニアックを動かすとフィラデルフィアの町の明かりが暗くなった、という話が広まったが、これは作り話とされる。速さは一秒間に五千回の足し算で、人が二十時間、機械式の解析機が十五分かけていた一本の弾道を、三十秒で計算した。砲弾が実際に飛ぶ時間より、計算のほうが速かった。

2人のプログラマがENIACの制御パネルを操作しているところ
2人のプログラマがENIACの制御パネルを操作しているところWikimedia Commons Unidentified U.S. Army photographer · Public domain

ただし、エニアックには、いまのコンピューターのように手順を記憶しておく仕組みがなかった。手順を与えるとは、何百本ものケーブルを差し替え、何千ものスイッチを設定することだった。一つの問題の準備に、数日から数週間かかった。この仕事を任されたのが、計算手の中から選ばれた六人の女性である。キャスリーン・マクナルティ、ジーン・ジェニングズ、ベティ・スナイダー、マーリン・ウェスコフ、フランシス・ビラス、ルース・リヒターマン。彼女たちは初め、機密を理由に機械そのものを見ることさえ許されず、配線の図と論理の図だけを渡されて、それを読み解き、機械の動かし方を自分たちで考え出した。故障すれば、どの真空管が切れたのかを、計算の結果の乱れ方から推し量って突き止めた。いまでいうプログラミングと誤りの修正の、最初の形である。

戦争は、機械の完成を待たずに終わった。エニアックが最初に取り組んだ本格的な計算は、射表ではなかった。1945年12月、ロスアラモスの研究所から持ち込まれた、水素爆弾が成り立つかどうかを確かめるための計算である(マンハッタン計画)。百万枚に及ぶ穴あきカードが使われた。

マンハッタン計画に関わる図版:Time, 3-22 p.m, December 2, 1942. Place, Racquets Court under West Stands of Stagg Field, University of Chicago.... - NA
マンハッタン計画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

1946年2月、エニアックは報道陣に公開された。新聞は「巨大な頭脳」と書き立てた。弾道計算の実演が行われ、配線をする女性たちの写真も撮られたが、説明に彼女たちの名はなく、機械を引き立てるために置かれた人のように扱われた。公開を祝う晩餐会にも、彼女たちは招かれなかった。1980年代、古い写真を見た若いプログラマーのキャシー・クレイマンがこの女性たちは誰かと尋ね、「モデルでしょう」と答えられたことから、掘り起こしが始まった。六人が技術者の殿堂に迎えられたのは1997年で、その時点で何人かは世を去っていた。

手順を配線で与えるという弱点は、すぐに乗り越えられた。1945年、エニアックの次の機械を議論する会に加わった数学者フォン・ノイマンが、手順をデータと同じ記憶装置に置く方式をまとめた報告書の草稿を書いた。報告書は彼の名だけで広まり、この方式は「ノイマン型」と呼ばれるようになった。エッカートとモークリーは自分たちの考えが横取りされたと感じ、両者の関係はこじれた。1948年には、エニアック自身も、簡単な形で手順を記憶できるよう改造された。1950年には、この機械で天気の数値予報も試みられている(計算機で天気を解く)。

ENIACのファンクションテーブルを操作している様子。この写真は詳細を分からなくするため、意図的に暗くしたものである。
ENIACのファンクションテーブルを操作している様子。この写真は詳細を分からなくするため、意図的に暗くしたものである。Wikimedia Commons Unidentified U.S. Army photographer · Public domain

エニアックは1955年10月2日の夜に電源を落とされ、九年あまりの働きを終えた。エッカートとモークリーは大学を離れて会社を作り、1951年、最初の商用の計算機の一つユニバックを世に出した。

エニアックは長く「世界最初の電子計算機」と呼ばれてきたが、いまは条件つきで語られる。アイオワ州立大学のアタナソフとベリーは1930年代末から電子式の計算機を作っており、1973年のアメリカの裁判は、エニアックの特許を無効とし、アタナソフの先行を認めた。イギリスでは1943年から44年にかけて、暗号を解くための電子式の機械コロッサスが動いていたが、機密のため1970年代まで知られなかった。ドイツのツーゼは、1941年にリレーで動く手順制御の計算機を完成させていた。エニアックが特別だったのは、電子式で、さまざまな問題に使え、実際に完成して長く働いたことである。百年前にエイダ・ラヴレスの覚え書きが思い描き、「計算可能な数について」が理論として示した機械は、こうして部屋いっぱいの真空管の形で現れた。

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