概要
ペンシルベニア大学。弾道計算表を作るために陸軍が資金を出した。真空管17468本、重さ27トン、部屋一杯。それまで一発の弾道の計算に人が20時間かけていたものが、30秒になった。配線を差し替えて「プログラム」したのは、6人の女性数学者だった(当時「計算手(コンピューター)」と呼ばれていた職の出身)。彼女たちの名は長く公表されなかった。翌年からノイマン型の記憶プログラム方式へ移る。
場所
39.95°N -75.17°E · アメリカ合衆国・ペンシルベニア州
本文
1942年、アメリカ陸軍のアバディーン試験場に、**弾道研究所**があった。
仕事は、砲の**射表**を作ること。この砲で、この角度で、この装薬で撃つと、砲弾はどこに落ちるか。空気抵抗、風、気温、砲身の摩耗、地球の自転。
一つの弾道の計算に、微分方程式を数値的に解く必要がある。手回し計算機を使って、一人が**20時間**。射表一枚には、数百から数千の弾道が要る。
新しい砲が次々に作られ、北アフリカの砂漠用の射表が要り、計算が追いつかない。
計算をしていたのは、**女性**だった。数学を学んだ女性が「計算手(コンピューター)」として雇われ、ペンシルベニア大学ムーア校とアバディーンに、100人以上いた。
微分解析機(アナログの機械式計算機)も使われたが、遅く、精度が足りなかった。
**提案**。
ペンシルベニア大学ムーア電気工学校の物理学者**ジョン・モークリー**が、真空管を使えば桁違いに速くなる、と提案した。
技術的な設計を担ったのが、大学院生の**J・プレスパー・エッカート**(当時24歳)。
軍は懐疑的だった。真空管は切れる。数千本使えば、数分ごとにどれかが切れて、計算が止まる。
エッカートの答え。(1)定格より低い電圧で使い、寿命を延ばす。(2)電源を切らない(真空管は、点けたり消したりするときに最も切れる)。(3)品質の良い管を選別する。
1943年6月、契約。開発費は最終的に約48万7000ドル。暗号名「PX計画」。
**ENIAC**(Electronic Numerical Integrator and Computer)。
- 真空管 **17,468本** - 抵抗 70,000個、コンデンサ 10,000個、リレー 1,500個、手はんだ 500万か所 - 重さ **27トン**、幅 **30メートル**、床面積 167平方メートル - 消費電力 150キロワット(「ENIACを動かすとフィラデルフィアの街の灯が暗くなる」という話が流布したが、これは俗説)
**速さ**。1秒間に5000回の加算。掛け算385回。
一発の弾道の計算——人が20時間、微分解析機が15分、ENIACが**30秒**。
砲弾が飛ぶ時間より、計算のほうが速い。
**プログラミング**。
ENIACには、記憶されたプログラムがない。「プログラムする」とは、**配線をつなぎ替え、スイッチを設定する**ことである。
一つの問題の設定に、数日から数週間かかった。
この仕事を任されたのが、6人の女性である。
**キャスリーン・マクナルティ・モークリー・アントネッリ、ジーン・ジェニングズ・バーティック、フランシス・スナイダー・ホルバートン、マーリン・ウェスコフ・メルツァー、フランシス・ビラス・スペンス、ルース・リヒターマン・タイテルバウム**。
全員、アバディーンとムーア校の「計算手」の出身。
彼女たちには、機械を見ることさえ最初は許されなかった(機密のため)。配線図と論理図だけを渡され、それを読んで、機械の動かし方を自分たちで考え出した。
彼女たちは、機械が故障したとき、どの真空管が切れたかを、論理から推定して特定した。デバッグという仕事の、最初の形である。
**公開**。1946年2月14日、報道陣に公開された。新聞は「巨大頭脳」と書いた。
デモンストレーションでは、弾道計算が実演された。
写真撮影が行われた。配線をする女性たちが写っている。しかし、キャプションに名前はなかった。彼女たちは「モデル」——機械を美しく見せるために配置された女性——だと思われた。
公開の夜の祝賀の晩餐会に、彼女たちは招かれなかった。
(1980年代、プログラマーのキャシー・クレイマンが古い写真を見て、この女性たちは誰かと尋ね、「モデルでしょう」と答えられたことから、掘り起こしが始まった。1997年、6人は国際技術殿堂入りした。多くは既に高齢か、故人だった。)
**最初の仕事**。
戦争は、完成前に終わっていた(1945年8月)。
ENIACが最初に実行した本格的な計算は、射表ではなかった。**水素爆弾の設計のための計算**である。ロスアラモスから来た問題を、1945年12月に走らせた。100万枚のパンチカードを使った。
**その後**。
1945年、フォン・ノイマンが「EDVACに関する報告書の第一草稿」を書いた。**プログラムを、データと同じ記憶装置に置く**(記憶プログラム方式)。これで、配線の付け替えが不要になる。
(この報告書は、ノイマンの単独名義で流布した。エッカートとモークリーは、自分たちの発案が横取りされたと考え、特許も取れなくなった。以後、この方式は「ノイマン型」と呼ばれる。)
1948年、ENIAC自身も、簡易な記憶プログラム方式に改造された。
1955年10月2日、23時45分、ENIACの電源が落とされた。稼働9年。
エッカートとモークリーは大学を離れて会社を作り、UNIVAC I(1951年、最初の商用計算機)を作った。1952年の大統領選挙で、開票率7%の時点でアイゼンハワーの圧勝を予測し、CBSの担当者が信じずに放送を控えた、という逸話が残っている。
**先行者たち**。
ENIACは「最初の電子計算機」と長く言われたが、いまは条件つきである。
- **アタナソフ=ベリー計算機**(1937〜42年、アイオワ州立大学)。電子式だが、汎用ではなく、完成もしなかった。1973年の特許訴訟で、裁判所はENIACの特許を無効とし、アタナソフの先行を認めた。 - **コロッサス**(1943年、ブレッチリー・パーク)。電子式で、暗号解読に使われた。機密のため1970年代まで公表されなかった。 - **ツーゼ Z3**(1941年、ベルリン)。電気機械式(リレー)。プログラム制御。
ENIACが特別だったのは、**電子式で、汎用で、実際に完成して、長く使われた**ことである。