ミュンヘン一揆
概要
ビアホールで州の首脳を拳銃で脅し、ルーデンドルフを担いで街を行進した。警察が撃ち、16人が死んだ。ヒトラーは肩を脱臼して逃げ、捕まった。裁判で演説し、5年の判決で9か月。獄で『わが闘争』を口述した。「次は合法的に」。
場所
48.14°N 11.58°E · ドイツ
関わった人(2)
ヒトラーAD1889年4月20日–AD1945年4月30日 · 首謀ルーデンドルフAD1865年4月9日–AD1937年12月20日 · 担がれた本文
1923年のドイツは、第一次世界大戦の敗北から立ち直れずにいた。1月、賠償の支払いが滞ったことを理由に、フランスとベルギーの軍が工業地帯のルールを占領した。政府は住民に抵抗を呼びかけ、ストライキの労働者の生活を紙幣の印刷でまかなったため、物価は天文学的に上がった(ドイツのハイパーインフレ)。11月には1ドルが4兆マルクを超え、人々の貯金は紙くずになった。共和国への怒りは、右からも左からも噴き出していた。
南のバイエルン州は、ベルリンの中央政府に反発する右派の拠点だった。州の実権を握っていたのは、州総監のグスタフ・フォン・カール、州の国軍の司令官ロッソウ、州警察の長ザイサーの三人で、彼らもベルリンへの進軍を口にしていた。ミュンヘンで勢いを伸ばしていたのが、34歳のヒトラーが率いる国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)である。党員は5万を超え、突撃隊という私兵を抱えていた。ヒトラーの手本は、前年にイタリアでローマ進軍を成功させて首相になったベニート・ムッソリーニだった。ヒトラーは、カールたちが自分を出し抜いて動く前に、彼らを巻き込んで先に事を起こそうと決めた。

1923年11月8日の夜8時半ごろ、ミュンヘンのビアホール、ビュルガーブロイケラーでは、カールが3000人ほどの聴衆を前に演説していた。そこへ突撃隊がなだれ込んで出口を固め、ヒトラーは椅子の上に立って拳銃を天井に撃ち、国民革命が始まった、この建物は600人の武装した兵に囲まれている、と叫んだ。ヒトラーはカール、ロッソウ、ザイサーを別室に連れ込み、拳銃を手に協力を迫った。そこへ大戦の英雄の将軍ルーデンドルフが呼ばれてやって来ると、三人はしぶしぶ従うと答えた。ホールに戻ったヒトラーは、ベルリンへの進軍とルーデンドルフを軍の長とする新政府を宣言した。
だがヒトラーが別の場所の騒ぎを収めに出ているあいだに、ルーデンドルフは三人を帰してしまった。解放された三人はただちに約束を撤回し、軍と警察に一揆を鎮めるよう命じた。突撃隊のレームが国軍の司令部を占拠したほかは、市内の要所はほとんど押さえられなかった。

11月9日の朝、行き詰まったヒトラーたちは、ルーデンドルフの言葉に押されて町の中心へ行進することにした。軍は大戦の英雄に銃を向けないだろうというのである。正午ごろ、2000人ほどの隊列がマリエン広場を抜け、将軍たちの記念堂フェルトヘルンハレの前のオデオン広場へ向かった。そこで州警察の部隊が行く手をふさいだ。どちらが先に撃ったかは分からない。銃撃は短い時間で終わったが、一揆の側の14人が倒れ、国軍の司令部の前で死んだ2人と合わせて16人が死んだ。警官も4人が死んだ。
ヒトラーと腕を組んでいたショイプナー=リヒターが撃たれて倒れ、引きずられて地面に倒れたヒトラーは肩を脱臼した。ヒトラーは車で逃げ、二日後、ミュンヘン郊外の支持者の別荘で捕えられた。突撃隊の幹部ゲーリングは脚の付け根を撃たれてオーストリアへ逃れ、痛み止めのモルヒネの依存に長く苦しむことになる。ルーデンドルフは撃ち合いの中をまっすぐ歩いて警官の列を抜け、その場で逮捕された。

1924年2月から始まった裁判は、ヒトラーにとって舞台になった。右派に同情的な判事たちは、ヒトラーに何時間も演説させた。ヒトラーは、自分は反逆者ではない、1918年に国を裏切った者たちに逆らったのだと訴え、新聞がそれを全国に報じた。4月1日の判決は、反逆罪で禁固5年。ルーデンドルフは無罪になった。
ヒトラーが送られたランツベルクの刑務所は、彼を特別な囚人として扱った。面会も差し入れも自由で、ヒトラーはここで、運転手のエミール・モーリスや、のちの党の副総統ルドルフ・ヘスに口述を書き取らせ、のちに『わが闘争』となる本をまとめた。1924年12月20日、ヒトラーは9か月ほどの服役で仮釈放された。
一揆の失敗から、ヒトラーは方針を改めた。武力で権力を奪うのではなく、選挙で議席を取り、議会の中から権力に近づく。その道は、世界恐慌の混乱の中で実を結び、1933年1月、ヒトラーは首相になった(ナチスの政権掌握)。

政権を取ったナチは、一揆を党の神話にした。死んだ16人は「血の証人」と呼ばれ、撃ち合いで血に染まった旗は「血の旗」として党の儀式で使われた。毎年11月9日には、党の幹部が同じ道を行進した。1938年11月9日、その記念の集まりの夜に、ドイツ全土でユダヤ人の商店とシナゴーグが襲われた(水晶の夜)。翌1939年11月8日には、家具職人ゲオルク・エルザーがビュルガーブロイケラーの柱に時限爆弾を仕掛けた。爆弾は予定どおり爆発したが、ヒトラーは予定を早めて13分前に会場を出ていた。
フェルトヘルンハレにはナチの記念碑が置かれ、前を通る者は腕を上げて敬礼することを求められた。それを嫌って、建物の裏を抜ける細い路地を通る人が増え、その路地は「逃げ道」と呼ばれた。いま、その路地の石畳には、敬礼を避けた人々の足取りをしのんで、金色の線が埋め込まれている。