沖縄戦

概要
本土決戦の前に、時間を稼ぐための戦い。3か月。県民の4人に1人、9万4000人が死んだ。集団自決、壕からの追い出し、スパイ容疑の殺害。首里が落ち、軍は南へ退いて住民を巻き込んだ。6月23日、牛島司令官が自決。沖縄はそれから27年アメリカが持った。
場所
26.22°N 127.72°E · 沖縄県那覇市
本文
1945年4月1日、アメリカ軍の大部隊が沖縄本島の中部西海岸、読谷から北谷にかけての浜に上陸した。それから6月下旬に日本軍の組織的な戦闘が終わるまで、およそ3か月。沖縄戦は、日本の国内で住民を巻き込んで行われた最大の地上戦だった。日米両軍と住民を合わせて20万人を超える人が死に、沖縄県民の4人に1人が命を落としたとされる。
沖縄は、19世紀の琉球処分で日本に組み込まれた土地である。太平洋戦争の戦況が悪化した1944年、日本軍は沖縄に第32軍を置き、飛行場を次々に造らせた。住民も飛行場や陣地の建設に動員された。1944年8月には、本土へ疎開する子どもたちを乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦に沈められ、多くの子どもが死んだ。10月10日には、那覇の町の大半がアメリカ軍の空襲で焼けた。

大本営にとって、沖縄戦は本土決戦の準備を整えるための時間稼ぎの戦いだった。第32軍の司令官牛島満中将、参謀長の長勇、作戦を担った高級参謀の八原博通は、10万ほどの兵力で、上陸してくる敵を水際で迎え撃たず、島の南部の首里を中心とする陣地に引き込んで、できるだけ長く持ちこたえる作戦をとった。この10万には、現地で召集された沖縄の男性の防衛隊や、学生たちも含まれていた。
戦いは本島への上陸の前から始まっていた。3月26日、アメリカ軍は那覇の西に浮かぶ慶良間諸島に上陸した。渡嘉敷島や座間味島などでは、追い詰められた住民たちが、手榴弾や刃物、農具などで家族どうしが命を絶ち合う、集団自決(強制集団死)が起きた。住民は、捕まれば男は殺され、女は辱められると教え込まれていた。その死に軍がどう関わったのかは、いまも議論が続き、教科書の記述をめぐって何度も争われてきた。

4月1日の本島上陸に、日本軍はほとんど抵抗しなかった。アメリカ軍は上陸当日に北と中の二つの飛行場を手に入れ、島を南北に分断した。北部は4月のうちにほぼ制圧された。しかし南へ進んだアメリカ軍は、首里の手前の嘉数高地で、地下に掘られた陣地からの激しい抵抗にぶつかった。前田高地、安里の丘(アメリカ軍はシュガーローフと呼んだ)では、同じ丘を何度も奪い合う戦いが続いた。
海では、日本軍が特攻機を次々に沖縄の周りのアメリカ艦隊に突入させた(特攻)。4月6日からの菊水作戦では、陸海軍合わせて千数百機の特攻機が出撃し、数千人の若者が死んだ。4月7日には、沖縄へ向かった戦艦大和が九州の南の坊ノ岬沖でアメリカ軍の空襲を受けて沈み、乗員3000人あまりが死んだ。

5月4日、日本軍は総攻撃に出たが、大きな損害を出して失敗した。5月下旬、首里の司令部が包囲されかけると、第32軍は首里を捨てて、島の南端の喜屋武半島へ退くことを決めた。軍の中にも、首里で最後まで戦うべきだという意見があった。南部には、戦火を逃れて多くの住民が避難していた。軍が住民のいる南部へ退いたことで、兵士と住民が同じ狭い土地に押し込められた。
ここから、住民にとっての地獄が始まった。住民が隠れていた自然の洞窟、ガマに兵士たちが入り込み、住民を追い出した。追い出された住民は砲弾の中に放り出された。ガマの中では、泣く子どもの声で敵に見つかると、母親に子どもを黙らせるよう迫る兵士もいた。沖縄の言葉を話した住民が、スパイの疑いをかけられて殺される事件も起きた。アメリカ軍は海と空と陸から砲弾を撃ち込み続けた。沖縄の人々はこれを「鉄の暴風」と呼んだ。

学生たちも戦場に送られた。沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒と教師240人は、陸軍病院の看護要員として動員された。のちにひめゆり学徒隊と呼ばれる人々である。6月18日、軍から突然の解散命令が出され、砲弾の中に放り出された生徒たちの多くが、その後の数日で命を落とした。死者は教師と生徒を合わせて136人にのぼった。男子の中学生や師範学校の生徒たちも鉄血勤皇隊として動員され、その半数ほどが死んだとされる。
6月18日、アメリカ軍の司令官バックナー中将が、南部の前線を視察中に日本軍の砲弾を受けて戦死した。アメリカ軍がこの戦争で失った最高位の指揮官の一人である。6月23日(22日とする説もある)、牛島中将と長参謀長は、摩文仁の司令部壕で自決した。牛島は最後の命令で、生き残った将兵に最後まで戦い続けることを求め、降伏を許さなかった。そのため、組織的な戦闘が終わった後も、各地で散発的な戦闘と住民の犠牲が続いた。南西諸島の日本軍が正式に降伏文書に署名したのは、9月7日のことである。

沖縄県の集計によれば、沖縄戦での日本側の死者は18万8000人あまり。そのうち、沖縄県外から来た日本兵が6万6000人ほど、沖縄出身の軍人・軍属が2万8000人ほど、そして一般の住民が9万4000人ほどとされる。アメリカ軍の死者は1万2000人あまりにのぼった。ほぼ同じころに戦われた硫黄島の戦いと並んで、太平洋戦争の中でも最も多くの犠牲を出した戦いの一つだった。
沖縄戦が終わってまもなく、アメリカは広島と長崎に原爆を落とし(広島・長崎への原爆投下)、日本は降伏した。本土決戦は行われなかった。沖縄はそのままアメリカの統治下に置かれ(沖縄(アメリカ施政下))、日本に返されたのは27年後の1972年だった(沖縄返還)。

沖縄では毎年6月23日を「慰霊の日」として、戦没者を悼む。糸満市の摩文仁の丘には、平和の礎が建てられ、沖縄戦などで亡くなった24万人を超える人々の名が、国籍を問わず、軍人か民間人かを問わず刻まれている。沖縄戦の体験から、沖縄では「軍隊は住民を守らない」という言葉が語り継がれてきた。いまも日本にあるアメリカ軍の専用施設の約7割が沖縄に集中している。沖縄戦の記憶は、過去の歴史というだけでなく、いまの沖縄の暮らしと結びついたまま続いている。