ドレスデン爆撃
概要
「エルベのフィレンツェ」に、戦争が終わる3か月前、英米の爆撃機1200機が13日の夜から15日にかけて焼夷弾を落とした。火災旋風。2万5000人。避難民で膨れた街だった。「軍事目標はあったか」は、いまも問われる。ヴォネガットは捕虜として地下の食肉庫にいて、『スローターハウス5』を書いた。
場所
51.05°N 13.74°E · ドイツ
本文
ドレスデンは、エルベ川のほとりにあるザクセンの古い都である。18世紀の王たちが、バロック様式の宮殿や教会、美術館を建て並べ、エルベのフィレンツェと呼ばれた。円屋根の聖母教会(フラウエンキルヒェ)、ツヴィンガー宮殿、歌劇場が川沿いに並ぶ眺めは、絵にも描かれて名高かった。戦争の後半まで大きな空襲を受けておらず、市民の間には、この街は爆撃されないという噂さえあった。
空からの都市攻撃は、この戦争の初めから、両方の側が行っていた。ドイツはゲルニカ爆撃に始まり、ロッテルダム爆撃やロンドンへのロンドン大空襲、コヴェントリーの爆撃を行った。イギリスの爆撃機軍団を率いたアーサー・ハリスは、工場だけを狙う精密な爆撃は夜間には難しいとして、都市の市街地そのものを焼き払う地域爆撃を進めた。1943年夏のハンブルクの空襲では、火災旋風が起き、4万人前後が死んだとされる。
1945年2月、東からソ連軍がドイツ東部に迫っていた。東の州からは何十万という避難民が西へ逃れ、ドレスデンの人口も避難民で膨らんでいた。連合軍は、東部の都市を爆撃してドイツ軍の移動と避難民の流れを混乱させ、ソ連軍の進撃を助ける作戦を立てた。2月初めのヤルタ会談では、ソ連の側から、東部の交通の要所を爆撃してほしいという要望が出ていた。ドレスデンは、鉄道が集まる結節点だった。

2月13日の夜10時過ぎ、イギリスの爆撃機の第一波、ランカスター240機余りが市の上空に現れた。先導の機が目標の印を落とし、その周りに爆弾と焼夷弾が降り注いだ。3時間後、消火や救助の人々が街に出ていたところに、第二波の500機余りが来た。燃え広がった火は互いに合わさり、周りの空気を吸い込む巨大な火の渦になった。火災旋風である。地下室に逃げ込んだ人々は、熱と煙と酸欠で死んだ。翌14日の昼にはアメリカの爆撃機300機余りが、15日にも再び爆撃を加えた。4回の空襲で、英米の爆撃機は延べ1200機を超え、およそ3900トンの爆弾と焼夷弾を落としたとされる。
旧市街は焼け野原になった。聖母教会は、空襲の火に耐えたが、2日後、内部の熱で支える柱が弱り、崩れ落ちた。

死者の数は、長く争いの種になった。ドイツの宣伝相ゲッベルスは、死者を実際よりはるかに多く宣伝し、連合軍の残虐を訴えた。戦後も、20万人や25万人といった数字が出回り、のちにホロコーストの否定で裁判に敗れることになるイギリスの著述家デイヴィッド・アーヴィングは、13万5000人という数を広めた。ドレスデン市は2004年に歴史家の委員会を作り、記録と遺体の収容の資料を調べ直した。委員会は2010年、死者は最大で2万5000人と結論づけている。
この空襲が必要だったのかは、戦争の終わりからすでに問われていた。ドレスデンには鉄道と、軍需品を作る工場もあった。一方で、空襲の中心は市の中心部の旧市街で、鉄道の施設や工場の多くは比較的早く復旧したとも指摘される。3月28日、首相のチャーチルは、恐怖を与えるためだけにドイツの都市を爆撃することは見直すべき時が来た、という趣旨の文書を軍の首脳に送った。空軍の側が強く反発し、チャーチルは表現を和らげた文書に書き直している。

戦争が終わると、勝った側も都市爆撃から距離を置いた。ハリスはほかの司令官のように貴族の位を与えられず、爆撃機軍団の5万人を超える戦死者のための記念碑がロンドンに建ったのは、2012年になってからだった。
この空襲を、地下で生き延びた一人のアメリカ兵がいた。バルジの戦いで捕虜になったカート・ヴォネガットである。彼は捕虜として、屠畜場の第5号棟の地下にある肉の貯蔵庫に入れられていて、助かった。翌日から、焼け跡で遺体を掘り出す作業をさせられた。20年以上たった1969年、ヴォネガットはこの体験をもとに小説『スローターハウス5』を書いた。人が死ぬたびに繰り返される「そういうものだ」という一言で知られる。

もう一人、空襲に救われた人がいた。ドレスデンに残っていたユダヤ人の文学者ヴィクトール・クレンペラーである。2月13日、街に残るユダヤ人の多くに、移送の通知が配られていた。その夜の空襲の混乱の中で、クレンペラーは服からユダヤ人のしるしの星を外し、ドイツ人の避難民にまぎれて逃れた。彼が書き続けた日記は、戦後に出版され、ナチスの時代を生きた記録として広く読まれている。
戦後、ドレスデンは東ドイツの都市になった。東ドイツ政府は毎年2月13日、空襲を英米の野蛮の象徴として記念した。ドイツの統一後には、極右の団体がこの日に行進を行い、空襲を「爆撃のホロコースト」と呼ぶようになった。これに対して、市民たちが手をつないで旧市街を囲む人間の鎖を作り、空襲の死者を悼むことと、ナチスの犯罪を薄めることとは別だと示してきた。

崩れた聖母教会は、45年にわたって瓦礫の山のまま残され、戦争を戒める記念碑とされた。統一後の1994年、瓦礫の石を一つずつ番号をつけて元の位置に戻す再建が始まり、2005年に完成した。焼けて黒ずんだ古い石と、新しい白い石がまだらに並んでいる。円屋根の上の金色の十字架は、イギリスの人々の寄付で作られた。作ったのはロンドンの金細工師で、その父は、この夜ドレスデンを爆撃した爆撃機の乗員だった。