東京裁判

概要
市ヶ谷の旧陸軍省。11か国の判事。A級戦犯28人。「平和に対する罪」。2年半。7人が絞首刑。東条英機、広田弘毅。インドのパル判事は全員無罪の意見書を書いた。天皇は訴追されなかった。「勝者の裁き」か「文明の裁き」か、日本ではいまも二つの答えがある。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
関わった人(2)
東条英機AD1884年12月30日–AD1948年12月23日 · 絞首刑マッカーサーAD1880年1月26日–AD1964年4月5日 · 設置本文
1945年7月のポツダム会談で出されたポツダム宣言は、日本に降伏を求めると同時に、捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人に厳しい裁きを加えると書いていた。日本はこの宣言を受け入れて降伏した。連合国はすでにドイツについて、指導者たちを国際法廷で裁く準備を進めていた(ニュルンベルク裁判)。日本でも同じことが行われることになった。
9月11日、アメリカ軍の憲兵が東京・世田谷の家に開戦時の首相東条英機を逮捕しに来た。東条は拳銃で自分の胸を撃ったが、弾は心臓をわずかに外れた。アメリカ軍の医師が輸血して命を救い、彼は裁かれるために生き延びた。自決に失敗したことは、当時の日本でも冷ややかに受け止められた。

1946年1月、連合国軍最高司令官のマッカーサーは極東国際軍事裁判所の条例を定めた。裁く罪は三つに分けられた。侵略戦争を計画し、始め、行ったことを罰する「平和に対する罪」、捕虜の虐待など戦争の法規に反する「通例の戦争犯罪」、そして一般の住民に対する殺害や迫害を罰する「人道に対する罪」である。A級、B級、C級という呼び方はこの分類から来ていて、罪の重さの順ではない。東京の法廷で裁かれたのは、主に平和に対する罪に問われた指導者たちだった。B級とC級の裁判は、アジアの各地で別に開かれた。
判事は11か国から出た。アメリカ、イギリス、ソ連、中国、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドに、のちにインドとフィリピンが加わった。裁判長はオーストラリアのウェッブ、首席検察官はアメリカのキーナンが務めた。被告は28人で、東条のほか、元首相の広田弘毅や平沼騏一郎、陸軍の板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、外務大臣だった松岡洋右や東郷茂徳、重光葵、内大臣の木戸幸一らが含まれた。起訴状は4月29日、昭和天皇の誕生日に出された。

1946年5月3日、東京・市ヶ谷の旧陸軍省の講堂で法廷が開かれた。初日、被告席にいた思想家の大川周明が、前に座る東条の頭を手で叩くという騒ぎが起きた。大川は精神の病と診断されて裁判から外された。松岡と海軍の永野修身は審理の途中で病死した。審理は2年半に及び、法廷は800回あまり開かれ、400人を超える証人が呼ばれた。南京で起きた虐殺や、捕虜の扱い、満州事変から太平洋戦争に至るまでの政策決定が、膨大な証言と文書で検討された。
法廷にいなかったのが昭和天皇である。連合国のなかにはオーストラリアなど天皇の訴追を求める声もあったが、マッカーサーは、天皇を裁けば占領が混乱すると考え、訴追しない方針を取った。審理の途中、東条は証言台で、日本の臣民が天皇の意思に背いて何かをすることはありえない、という趣旨のことを言った。そのまま受け取れば、開戦も天皇の意思だったことになる。数日後、東条は証言を言い直した。天皇の責任に話が及ばないよう、法廷の外で調整があったとされる。

1948年11月12日、刑が言い渡された。死刑は7人で、東条、広田、板垣、土肥原、木村兵太郎、松井、武藤章である。広田は文官としてただ一人死刑になった。ほかに16人が終身禁錮、東郷が禁錮20年、重光が禁錮7年とされた。12月23日、7人は東京・巣鴨の拘置所で絞首刑に処された。この日は皇太子明仁の誕生日だった。
判決は全員一致ではなかった。インドのパル判事は、被告全員を無罪とする長い反対意見を書いた。平和に対する罪は、戦争が行われた当時の国際法には定められておらず、あとから作った法で罰するのは許されないこと、勝った側の行いは裁かれていないことなどを理由に挙げ、原爆の投下にも触れて連合国の側を批判した。ただしパルは、日本軍の残虐な行為そのものを否定したわけではない。オランダのレーリンク判事も、広田ら一部の被告を無罪とする意見を出した。これらの少数意見は法廷では読み上げられなかった。
この裁判をどう見るかは、日本ではいまも二つに分かれる。勝った国が負けた国を、あとから作った罪で裁いた「勝者の裁き」だという見方と、侵略と残虐行為の責任を個人に問うた、国際法の歴史の一歩だという見方である。1951年のサンフランシスコ講和条約の第11条で、日本は裁判の判決を受け入れると約束し、それを前提に独立を回復した。服役していた人々は1950年代のうちに釈放され、重光葵はのちに外務大臣に、賀屋興宣は法務大臣になった。

1978年、靖国神社は、刑死した7人と獄中で亡くなった人々を合わせた14人を「昭和殉難者」として祀った。これが明らかになると、首相の参拝のたびに中国や韓国が抗議するようになった。昭和天皇は1975年を最後に靖国神社に参拝していない。2006年には、宮内庁長官だった富田朝彦のメモが見つかり、昭和天皇がこの合祀に不快感を示し、それが参拝しなくなった理由だと語ったと記されていた。
法廷になった講堂は、いまは防衛省の敷地にあり、一部が移築されて「市ヶ谷記念館」として残っている。予約すれば見学でき、判事たちが並んだ壇を見ることができる。