ポーツマス条約
概要
セオドア・ローズヴェルトの仲介で、小村寿太郎とウィッテが結んだ。韓国の指導権、旅順・大連、南満洲鉄道、樺太の南半分。賠償金はなし。日本にはもう戦う金も兵もなかった。
場所
43.07°N -70.76°E · アメリカ・ニューハンプシャー州
関わった人(1)
小村寿太郎AD1855年10月26日–AD1911年11月26日 · 全権本文
1905年の春、日露戦争は、日本の勝ちが続いているように見えた。1月に旅順が落ち、3月の奉天の会戦ではロシア軍を北へ退かせた。5月27日から28日の日本海海戦では、地球を半周してきたロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させた。だが、内実は限界だった。奉天ではロシア軍を包み込めず、取り逃がしている。日本は兵の補充も弾薬も追いつかず、戦費の多くはロンドンやニューヨークで募った外債に頼っていた。これ以上戦えば、勝っても国が持たない。陸軍の首脳たちも、それを承知していた。
ロシアもまた、内側から揺らいでいた。1月、首都ペテルブルクで請願の行進に軍が発砲した血の日曜日事件をきっかけに、各地でストライキと暴動が広がり、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵が反乱を起こした。ただし、ロシアの陸軍は満洲でなお増強を続けていて、皇帝ニコライ2世は負けを認めるつもりは無かった。

日本は、日本海海戦の直後の5月31日、外相小村寿太郎の訓令で、駐米公使の高平小五郎を通じてアメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトに講和の仲介を頼んだ。ローズヴェルトは6月、両国に講和の会議を開くよう呼びかけた。日本から頼まれたことは伏せ、大統領が自分から勧めた形をとった。日本の弱みをロシアに見せないためである。
会議は8月、アメリカ東海岸の港町ポーツマスの海軍工廠(川を挟んだ対岸のメイン州側にある)で開かれた。夏のワシントンは暑すぎた。日本の全権は小村と高平、ロシアの全権は元蔵相セルゲイ・ウィッテと駐米大使ローゼン。大柄で弁の立つウィッテと、小柄で寡黙な小村の対比は、当時の新聞の格好の話題になった。ウィッテは毎日のように記者と会い、ロシアの言い分をアメリカの世論に訴えた。小村はほとんど口を開かず、はじめ日本に同情的だった世論は、次第にロシアに傾いていった。

日本は12項目の条件を出した。韓国での日本の優越を認めること、満洲からのロシア軍の撤退、遼東半島の旅順・大連の租借権と、ハルビンから南へ延びる鉄道の譲渡、樺太の割譲、戦費の賠償、ロシアの極東の艦隊を制限すること、沿海州の漁業権などである。ウィッテは、韓国や満洲、鉄道については早くに歩み寄った。だが、賠償金と樺太は拒んだ。ロシアは負けていない、一寸の土地も一ルーブルの金も渡さない、というのが皇帝の命令だった。賠償を払うのは負けた国であり、ロシアは戦争を続けることもできる、とウィッテは繰り返した。
交渉は8月の半ばに行き詰まった。日本は、樺太の北半分を返す代わりに金を払わせるという折衷の案も出したが、ロシアは乗らない。決裂を恐れたローズヴェルトは、駐露大使を通じて直接ニコライ2世に働きかけ、皇帝から、樺太の南半分なら譲ってもよい、しかし金は一銭も払わない、という言葉を引き出した。東京では8月28日、御前会議が開かれ、賠償金も樺太も取れないなら、それでも講和を結ぶという決定が下された。8月29日、小村は賠償の要求を引っ込めると告げ、ウィッテは樺太の南半分の割譲を受け入れた。会議場の外でこの知らせを待っていた記者たちは、思いがけない早さの妥結に驚いた。

1905年9月5日、条約は調印された。ロシアは、韓国での日本の政治・軍事・経済上の優越を認め、旅順・大連の租借権と、長春から旅順までの鉄道とそれに付属する権利を日本に譲り、北緯50度より南の樺太を日本に渡した。沿海州などの漁業権も日本に認められた。賠償金は無い。両国の軍は満洲から引き揚げることとされた。
日本の国内は、この結果を受け入れなかった。政府は戦争の苦しさを国民に伏せたまま、勝利だけを伝えていた。重い増税と、8万を超える戦死者を出した人々は、大きな賠償と領土を当然のことと思っていた。調印の日、東京の日比谷公園で講和に反対する集会が開かれ、群衆は内務大臣の官邸や交番、講和を支持した新聞社を襲って火を放った(日比谷焼打事件)。政府は戒厳令を敷いて鎮めた。帰国した小村は、警官に守られて東京に入った。桂太郎の内閣は翌1906年1月に総辞職している。
ウィッテは帰国すると伯爵に叙せられたが、口の悪い人々は彼を「半樺太伯」と呼んだ。それでも、負けを重ねた戦争で賠償を一銭も払わずに済ませたことは、ロシアの外交の勝利と見る人も多い。ローズヴェルトは仲介の功で1906年にノーベル平和賞を受けた。アメリカ人として初めてのノーベル賞だった。
条約は、東アジアの地図を書き換えた。韓国について、日本はすでに7月にアメリカと、8月にはイギリスと(日英同盟の改定)、互いの勢力を認め合う了解を取り付けていた。ポーツマス条約でロシアの承認も得ると、11月には韓国に保護条約を結ばせて外交権を奪う。その先には1910年の韓国併合がある。ロシアから譲られた鉄道をもとに、翌年には南満洲鉄道株式会社が作られ、日本の満洲への進出の足場になった。樺太の南半分は、1875年の樺太・千島交換条約で手放してから30年ぶりに日本の領土となり、1945年まで続いた。

一方で、アメリカは急に強くなった日本を警戒し始め、日米の関係は少しずつ冷えていく。ポーツマスの海軍工廠には、会議の開かれた建物がいまも残っている。2005年、条約の百周年には、日本とロシアの関係者がこの町に集まった。