概要
セオドア・ローズヴェルトの仲介で、小村寿太郎とウィッテが結んだ。韓国の指導権、旅順・大連、南満洲鉄道、樺太の南半分。賠償金はなし。日本にはもう戦う金も兵もなかった。
場所
43.07°N -70.76°E · アメリカ・ニューハンプシャー州
関わった人(1)
小村寿太郎AD1855年10月26日–AD1911年11月26日 · 全権本文
1905年3月、 奉天。 5月、 日本海。 「もう、 戦えない」。 兵、 金、 弾。 外債は、 「これ以上、 借りられない」。 ロシアも。 「血の日曜日」。 1月22日。 革命。 6月、 戦艦ポチョムキン。 5月31日、 高平小五郎駐米公使。 「ローズヴェルトに、 仲介を依頼せよ」。 小村の訓令。 6月8日、 ローズヴェルト。 「両国に提案する」。 「日本が頼んだ」ことは、 隠した。
8月9日、 ポーツマス。 ニューハンプシャー州の海軍工廠。 ワシントンは暑いから。 小村寿太郎、 高平小五郎。 セルゲイ・ウィッテ、 ローゼン。 ウィッテは、 190センチ。 小村は、 150センチ。 「小村は、 ウィッテの顔を見上げて、 話した」。 日本の要求。 12項目。 韓国の指導権、 満洲からの撤兵、 旅順・大連の租借権、 東清鉄道の南部支線、 樺太、 賠償金、 沿海州の漁業権、 ウラジオストクの非武装、 ロシア艦隊の極東からの撤退。 ウィッテ。 「ロシアは、 負けていない。 一片の土地も、 一ルーブルも、 渡さない」。 「負けた国は、 賠償金を払う。 ロシアは、 負けていない」。 「戦争を続ける」。 「シベリア鉄道で、 100万人を送る」。 ウィッテは、 記者に、 毎日、 会った。 「開かれた外交」。 小村は、 会わなかった。 アメリカの世論が、 ロシアに。 8月18日、 小村が、 樺太の北半分と、 賠償金を、 「償金」でなく「樺太北半分の買い戻し金」12億円に、 と。 ウィッテ、 「一コペイカも」。 8月23日、 ローズヴェルトが、 ニコライ2世に。 「樺太の南半分を渡せ」。 ニコライ、 「南半分は。 金は、 一銭も」。 8月28日、 東京。 御前会議。 「賠償金を、 放棄する」。 「樺太南半分」。 「戦争は、 続けられない」。 山県。 「兵が、 いない」。 8月29日、 小村。 「賠償金を、 撤回する。 樺太は、 南半分」。 ウィッテ。 「同意」。 9月5日、 調印。 15条。 「韓国」。 「租借権の譲渡」。 「長春以南の鉄道」。 「北緯50度以南の樺太」。 「賠償金、 なし」。 「捕虜の費用は、 互いに負担」。
日本。 「屈辱」。 9月5日、 日比谷。 ウィッテ。 帰って、 伯爵。 「ポーツマスのウィッテ伯」。 「ポルツサハリンスキー」。 「半分の樺太のウィッテ」。 小村。 帰って、 警官に守られて。 「国賊」。 桂内閣は、 1906年1月、 総辞職。 ローズヴェルト。 1906年、 ノーベル平和賞。 アメリカ人で、 最初の。 ポーツマスの海軍工廠。 「ビルディング86」。 いまも、 条約の部屋がある。 2005年、 100年。 日本とロシアの外交官が、 来た。