昭和天皇
概要
在位62年。戦争と敗戦、そして象徴としての戦後を通した。
所属
日本関わったできごと(2)
玉音放送AD1945年8月15日 · 朗読広島・長崎への原爆投下AD1945年8月6日 · 玉音放送で終戦を告げる本文
昭和天皇は1901年4月29日、のちの大正天皇の長男として東京で生まれた。名は裕仁。当時の皇室のならわしで、生後70日余りで元海軍軍人の川村純義の家に預けられ、両親のもとを離れて育った。学習院初等科では院長の乃木希典の薫陶を受け、その後は東宮御学問所で、倫理や歴史、生物学などを学んだ。

1921年、皇太子として半年に及ぶヨーロッパ訪問に出た。皇太子の外遊は前例のないことだった。英国では国王ジョージ5世の歓待を受け、王が政治に深く立ち入らない立憲君主制のあり方に強い印象を受けたと、のちに語っている。帰国後まもなく、病の重い父に代わって摂政となった。1926年12月25日、父の死によって即位し、元号は昭和と改められた。25歳だった。
明治憲法のもとで、天皇は国の統治権をすべて握る存在と定められていたが、実際の政治は内閣と軍が動かしていた。即位して間もなく、関東軍が満州の軍閥の張作霖を爆殺した(張作霖爆殺事件)。首相の田中義一が、関係者を厳しく処分すると言いながら処分を曖昧にしたため、天皇は強く叱責し、内閣は総辞職した。のちに天皇は、このときの自分は若気の至りだったと述べ、以後は内閣の決めたことに反対しないよう心がけたと回想している。

天皇が自らの意思をはっきり示した場面として、二つがよく挙げられる。1936年の二・二六事件では、陸軍の青年将校たちが重臣を殺害して決起した。天皇は彼らを反乱軍と断じ、軍の首脳が対応をためらう中で、自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たるとまで言って、討伐を求めた。
もう一つが終戦である。1937年に日中戦争が始まり、1941年には真珠湾攻撃で米英との戦争に入った。開戦前の御前会議で、天皇は祖父の明治天皇が日露戦争の前に詠んだ、四方の海はみな同胞と思うのになぜ波風が立つのか、という歌を読み上げ、外交による解決を望む気持ちをにじませた。だが開戦の決定そのものは覆さなかった。1945年、本土の都市が焼かれ、原爆が落とされ、ソ連が参戦した後の8月10日と14日の御前会議で、天皇はポツダム会談で示された降伏の条件を受け入れる決断を示した。8月15日正午、ラジオで終戦の詔書が流された(玉音放送)。多くの国民が、このとき初めて天皇の声を聞いた。

戦争の中で天皇がどこまで判断に関わったのかは、今も議論が続いている。戦況の報告を細かく受け、作戦に意見を述べていたことは、側近の日記などから分かっている。一方で、憲法の仕組みの上では、輔弼する者の決定を裁可する立場にあった。どちらを重く見るかで、評価は大きく変わる。
1945年9月27日、天皇はアメリカ大使館に連合国軍最高司令官のマッカーサーを訪ねた。並んで立つ二人の写真は、国民に敗戦をあらためて思い知らせた。この会見で天皇が、戦争の全責任は自分にあり、自分の身はどうなってもよいと述べたという話が、マッカーサーの回想録などで伝わる。だが通訳の記録などとは内容が食い違い、実際に何が話されたのかは確かめられていない。連合国の中には天皇を裁くべきだという声もあったが、占領を円滑に進めたいアメリカの判断で、天皇は東京裁判に訴追されなかった。国内には退位を求める意見もあったが、退位はしなかった。

1946年元日、天皇は詔書を出し、天皇を神とする考えを架空のものと退けた(人間宣言)。同じ年から8年をかけて、沖縄を除く全国を巡り、焼け跡や工場、引揚者の住む場所で人々に声をかけた。翌1947年に施行された日本国憲法で、天皇は日本国と日本国民統合の象徴とされ、政治に関わる権能を持たなくなった。
戦後の天皇は、1971年にヨーロッパを、1975年にアメリカを訪ねた。訪米後の記者会見で戦争責任について問われ、そういう言葉のあやについては文学方面を研究していないのでよく分からない、と答えたことは、大きな波紋を呼んだ。靖国神社には1975年を最後に参拝しなかった。その理由を、1978年のA級戦犯の合祀に不快感を持ったためだとする元宮内庁長官のメモが、2006年に報じられている。

天皇は生物学者でもあった。皇居内に研究所を持ち、相模湾の生物や、ヒドロ虫類と呼ばれる小さな海の生き物を長年調べ、新種の記載を含む研究書を残した。1989年1月7日、十二指腸の腫瘍のため87歳で死去した。在位は62年余りで、歴代の天皇で最も長い。戦前と戦後という全く違う二つの国のかたちを、一人の天皇が通り抜けたことになる。その戦争責任をめぐる問いは、決着しないまま残された。