ダンケルクの撤退

概要
フランス北部で包囲されたイギリス軍とフランス軍33万8000人を、駆逐艦と漁船と遊覧船の800隻が9日で海峡を渡して運んだ。ヒトラーの戦車が2日止まった理由は、いまも論じられている。「撤退で戦争は勝てない」とチャーチルは言い、それから「我々は浜で戦う」と言った。
場所
51.03°N 2.38°E · フランス
関わった人(1)
チャーチルAD1874年11月30日–AD1965年1月24日 · 首相本文
1940年5月の末から6月の初めにかけて、フランス北端の港町ダンケルクの浜辺と港から、ドイツ軍に包囲されたイギリスとフランスの兵およそ34万人が、イギリス海峡を越えて救い出された。駆逐艦などの軍艦に加え、漁船、遊覧船、ヨット、救命艇まで、民間の小さな船が数多く駆り出された。作戦の名は「ダイナモ」。イギリスはこの撤退で軍の主力を失わずに済み、ドイツとの戦争を続けることができた。
第二次世界大戦が始まってから8か月、西部の前線では大きな戦いがなかった。だが1940年4月にドイツはデンマークとノルウェーに攻め込み(ドイツのデンマーク・ノルウェー侵攻)、5月10日、ついにオランダ、ベルギー、ルクセンブルクへ侵攻した。ロッテルダム爆撃の後、オランダは数日で降伏した。イギリスの大陸派遣軍とフランス軍の精鋭は、かねての計画どおりベルギーへ北上し、ドイツ軍の主力を迎え撃とうとした。前の大戦と同じように、ドイツ軍はベルギーの平野を通って攻めてくると考えていたのである。

だがドイツ軍の本当の主力は、南のアルデンヌの森を抜けてきた。深い森と丘の続くこの地方は、大軍の戦車が通れる場所ではないと思われていた。5月13日、ドイツの装甲部隊はスダンでムーズ川を渡り、手薄なフランス軍の陣を破ると、海に向かって一気に西へ走った。5月20日、先頭の部隊が英仏海峡に面したソンム川の河口に達した。ベルギーに入っていたイギリスとフランスの軍は、南のフランス本土から切り離され、海を背にした細長い地帯に閉じ込められた。
ドイツの装甲部隊は、海岸沿いに北へ向きを変え、ブーローニュとカレーを包囲して、ダンケルクへ迫った。連合軍に残された港は、もうダンケルクしかなかった。ところが5月24日、ダンケルクの手前まで来ていた戦車部隊に、停止の命令が出された。前線の司令官ルントシュテットの進言をヒトラーが認めたもので、命令が解かれるまでの2日あまりのあいだに、連合軍は港の周りに守りの線を固めることができた。なぜ戦車を止めたのかは、今も論じられている。戦い続けた戦車を休ませ、南のフランス軍との戦いに備えようとした。運河と湿地の多い土地は戦車に向かないと考えた。空軍の長ゲーリングが、空からだけで敵を片付けられると請け合った。ヒトラーはイギリスとの講和を望んでいたので、わざと逃がしたのだ、という説もあるが、多くの歴史家は否定している。

5月26日の夜、イギリス海軍はダンケルクからの撤退を始めた。指揮を執ったのはドーヴァーの崖の中に置かれた司令部のラムゼー提督である。当初、救い出せるのは2日でせいぜい4万5千人と見込まれていた。ダンケルクの港はドイツ空軍の爆撃で燃え上がり、船を着ける岸壁の多くが使えなかった。頼りになったのは、港の入口から海へ長く突き出した細い防波堤と、町の東に何キロも続く遠浅の砂浜だった。
遠浅の浜には大きな船が近づけない。そこで海軍は、浅い海に入れる小さな船を国じゅうから集めた。テムズ川の遊覧船、漁船、はしけ、個人のヨットやモーターボート、救命艇。持ち主や漁師が自ら舵を握って海峡を渡ることも多かった。兵たちは浜から腰まで、ときには肩まで海に浸かって列をなし、小さな船に引き上げられて、沖で待つ駆逐艦や大型船に運ばれた。防波堤には駆逐艦が横付けし、一度に数百人から千人近くを乗せて港を出た。その間も、ドイツの爆撃機と戦闘機が繰り返し襲いかかり、船は次々に沈められた。

救い出された人数は、日を追って増えていった。最も多かった5月31日には、1日で6万8千人ほどが海峡を渡った。港の周りの守りの線では、フランス軍の部隊が最後まで踏みとどまり、ドイツ軍を食い止めた。6月4日の未明に作戦が終わったとき、運ばれた兵は33万8千人あまり、そのうちイギリス兵がおよそ19万8千人、フランス兵などがおよそ14万人だった。守りに残ったフランス兵のうち数万人が捕虜になった。
失ったものも大きかった。イギリス軍は、車両、大砲、戦車など重い装備のほとんどすべてを浜に置き去りにした。駆逐艦を6隻失い、多くの船が傷ついた。本国に戻った兵の中には、小銃さえ持たない者が大勢いた。

撤退が始まる前後、ロンドンの戦時内閣では、もう一つの戦いが繰り広げられていた。外相ハリファックスは、まだイタリアが参戦していないうちにムッソリーニを仲立ちにして、ドイツとの講和の条件を探るべきだと主張した。首相になってまだ2週間あまりのチャーチルは、それに強く反対した。いったん交渉の席に着けば、もう戦いを続ける気力は戻らない、と。チャーチルは閣外の大臣たちの強い支持も得て、この論争を押し切った。もし30万を超える兵が捕虜になっていれば、イギリスは講和に傾いていたかもしれない、と考える歴史家は多い。
6月4日、チャーチルは下院で演説した。戦争は撤退によって勝つものではない、と国民が浮かれることを戒めながら、この救出の中には勝利があった、と述べた。そして、我々は海岸で戦い、上陸地点で戦い、野でも街でも丘でも戦う、我々は決して降伏しない、と結んだ。この演説は、イギリスの戦う意志を世界に示す言葉として記憶されている。
フランスでは受け止め方が違った。イギリスは自分たちだけ逃げた、という恨みの声も上がった。フランスへの攻撃は続き、6月14日にはパリが占領され、6月22日、フランスは休戦に応じた(ヴィシー政権)。イギリスはヨーロッパでただ一国、ドイツと戦い続けることになり、夏からはバトル・オブ・ブリテン、秋からはロンドン大空襲に耐えることになる。ダンケルクで救われた兵たちは、のちに北アフリカやイタリア、そして1944年のノルマンディー上陸で戦う軍の中核になった。

イギリスでは、苦境の中で皆が力を合わせて乗り切る心構えを、今も「ダンケルク精神」と呼ぶ。撤退に加わった小さな船の持ち主たちの協会は、数年ごとに船団を組んで海峡を渡り、ダンケルクを訪れている。この出来事は1958年と2017年に映画になった。ダンケルクの浜は今は海水浴場になっているが、引き潮の砂の中から、時おり当時の船の残骸が姿を現す。