できごと

バルジの戦い

Battle of the Bulge
AD1944年12月16日
重要度 4
バルジの戦いに関わる図版:117th Infantry North Carolina NG at St. Vith 1945
117th Infantry North Carolina NG at St. Vith 1945 Wikimedia Commons U.S. Army · Public domain

概要

ヒトラーの最後の攻勢。霧のアルデンヌを25万で突いた。バストーニュで囲まれた第101空挺の将軍が降伏勧告に「Nuts!」と答えた。晴れて航空機が飛び、パットンが北へ回った。アメリカ軍史上最大の死傷者。1か月で燃料と予備が尽き、ドイツは西でも終わった。

場所

バストーニュ
50.00°N 5.72°E · ベルギー

関わった人(1)

パットンAD1885年11月11日–AD1945年12月21日 · 救援

本文

1944年6月にノルマンディーに上陸した連合軍は、8月にパリを解放し、秋にはドイツの国境に迫った。だが、前線が延びるにつれて燃料と弾薬の補給が追いつかなくなり、進撃は止まった。それでも連合軍の兵士の間では、戦争はクリスマスまでに終わる、という楽観が広がっていた。ベルギーとルクセンブルクにまたがるアルデンヌの森は、丘と谷が入り組み、大軍が動くには向かないとされ、戦いで傷ついた師団の休養や、来たばかりの新兵の慣らしに使われる静かな戦区になっていた。

ヒトラーは、ここに最後の賭けを見た。1940年、ドイツ軍はまさにこの森を抜けてフランスを破っている。ひそかに集めた20万を超える兵と千両ほどの戦車で森を突き破り、ムーズ川を渡って、連合軍の補給の要であるアントワープの港まで進めば、イギリス軍とアメリカ軍を南北に切り離せる。そうなれば西側は講和に応じ、ソ連に兵を向けられる、と考えたのである。将軍たちの多くは無謀だと見たが、計画は押し通された。作戦は、連合軍の飛行機が飛べない霧と雪の日を待って始めることになった。

SS少尉ジークフリート・シュティーヴェ。第1SS装甲偵察大隊副官、1945年3月戦死
SS少尉ジークフリート・シュティーヴェ。第1SS装甲偵察大隊副官、1945年3月戦死Wikimedia Commons Julius Jääskeläinen · CC BY 2.0

12月16日の早朝、砲撃とともに攻撃が始まった。北ではSSの将軍ディートリヒの装甲軍が、中央ではマントイフェルの装甲軍が進んだ。不意を突かれたアメリカ軍は各地で崩れ、到着して間もない第106歩兵師団では、包囲された二つの連隊のおよそ7000人が降伏した。翌17日には、パイパーの率いるSSの部隊が、マルメディの近くで捕虜にしたアメリカ兵80人余りを機関銃で撃ち殺した。この知らせは前線に広がり、アメリカ兵の抵抗をかえって強めた。

ドイツ軍は、英語を話す兵にアメリカ軍の軍服を着せて後方に潜り込ませ、道標を変えたり噂を流したりする作戦も行った。指揮したのは、前年にムッソリーニを救出したスコルツェニーである。捕まった兵の口から、アイゼンハワーの暗殺を狙っている、という話が出ると、連合軍の後方では検問が厳しくなり、兵士たちは野球の選手の名前や州都を問いただし合って、互いに本物のアメリカ人かどうかを確かめた。

スヘルデの戦いの後、初めてアントワープに入港したイギリス軍の輸送艦
スヘルデの戦いの後、初めてアントワープに入港したイギリス軍の輸送艦Wikimedia Commons John Alfred Hampton · Public domain

12月19日、連合軍の最高司令官アイゼンハワーは将軍たちを集め、現状を災難ではなく好機と見るべきだ、と言った。敵は自分から陣地の外に出てきたのである。南にいたパットンの第3軍は、東へ向かって攻撃する準備をしていたが、パットンは向きを北へ90度変え、数日のうちに救援の攻撃を始めると請け合った。大軍の向きを冬の道で急に変えるのは難しい仕事だったが、第3軍は実際にそれをやってのけた。

道路の集まる町バストーニュには、急いで送り込まれた第101空挺師団などが立てこもり、12月20日ごろ完全に包囲された。12月22日、ドイツ軍の使者が降伏を勧める文書を届けると、師団長代理のマコーリフ准将は、ひとこと「NUTS!」と書いて返した。意味を測りかねたドイツ側の使者に、アメリカの将校は、地獄へ行け、という意味だと説明したという。

1944年12月15日。
1944年12月15日。Wikimedia Commons Public domain

12月23日、空が晴れた。連合軍の飛行機が一斉に飛び立ち、ドイツ軍の縦隊を襲い、バストーニュには空から弾薬や医薬品が落とされた。12月26日、パットンの第4機甲師団の先頭が包囲を破ってバストーニュに入った。同じころ、最も深く進んだドイツ軍の戦車部隊は、ムーズ川まであと数キロのディナンの手前で燃料が尽き、アメリカ軍の機甲部隊に撃ち破られた。連合軍の燃料の集積所を奪って進むという計画は、ついに果たせなかった。

1945年の元日、ドイツ空軍は残る機体を集めて連合軍の飛行場を一斉に襲ったが、多くの機と操縦士を失い、二度と立ち直れなかった。1月8日、ヒトラーは突出部からの後退を許した。英米軍が北と南から押し戻し、1月の末には前線はほぼ元の位置に戻った。地図の上で前線が大きく膨らんだ形から、英語ではこれをバルジ(膨らみ)の戦いと呼ぶ。

ヒトラーの進撃計画と実際の進撃の比較
ヒトラーの進撃計画と実際の進撃の比較Wikimedia Commons Public domain

アメリカ軍の死傷者と行方不明者はおよそ8万9000人、うち戦死者はおよそ1万9000人にのぼり、第二次世界大戦でアメリカ軍が一つの戦いで出した犠牲として最大になった。ドイツ軍の損害は推計に幅があるが、6万から10万人規模と見られ、戦車や飛行機の損失は補えなかった。最後の予備をここで使い果たしたことで、ドイツは西でも東でも守りきれなくなる。1月12日、ソ連軍はヴィスワ川から大攻勢を始め、2月にはオーデル川に達した。

勝利のあと、連合軍の内側にはしこりが残った。突破を受けて北半分のアメリカ軍の指揮を任されたイギリスのモントゴメリーが、1月の記者会見で、自分が戦いを収めたかのように語ったため、アメリカの将軍たちが激しく怒ったのである。チャーチルが議会で、これはアメリカの戦いだったと述べて、ようやく収まった。

アメリカ海軍のエニグマ暗号解読機「ボンバ」
アメリカ海軍のエニグマ暗号解読機「ボンバ」Wikimedia Commons National Security Agency · Public domain

この戦いで捕虜になった第106歩兵師団の兵士の中に、のちの作家カート・ヴォネガットがいた。彼は捕虜としてドレスデンに送られ、その地でドレスデン爆撃に遭うことになる。バストーニュの丘には、星の形をしたアメリカの戦没者の記念碑が建ち、町の土産物屋にはいまも「NUTS!」の文字が並んでいる。第二次世界大戦の西部戦線で、アメリカの兵士が最も多く戦った戦いとして、アメリカでは長く語り継がれている。

同じ時代のできごと

同潤会アパート1924年5月ラジオの時報AD1924年2月5日『ラプソディ・イン・ブルー』AD1924年2月12日甲子園球場AD1924年8月1日揺れに耐える建物の決まりAD1924年普通選挙法AD1925年(大正14年)治安維持法AD1925年4月22日スコープス裁判AD1925年7月10日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1944年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →