ハリー・トルーマン
概要
原爆の使用を決め、冷戦の封じ込め政策を始めた。副大統領になって82日で大統領になっている。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(4)
ポツダム会談AD1945年7月17日 · 米トルーマン・ドクトリンAD1947年3月12日 · 宣言ベルリン封鎖1948年 · 空輸朝鮮戦争1950年 · アメリカ側本文
1884年5月8日、ミズーリ州の小さな町ラマーに生まれた。名前の間の「S」は、二人の祖父の名の頭文字をとったもので、何の略でもない。目が悪く、厚い眼鏡をかけた少年は、外で遊ぶより本を読むのが好きだった。とくに歴史や偉人の伝記を読みふけった。家にお金がなく、大学には進めなかった。銀行の事務員などを経て、20代の大半を、家族の農場で畑を耕して過ごした。

第一次世界大戦が始まると、視力検査の表を暗記して軍に入ったと伝えられる。フランスの西部戦線で砲兵中隊の隊長を務め、荒くれ者の兵たちをまとめ上げた。帰国後、戦友と組んでカンザスシティで紳士用品の店を開いたが、戦後の不況で3年ほどで潰れた。破産の手続きは取らず、借金を十数年かけて返し続けている。
政治への道を開いたのは、カンザスシティの政治組織を率いるペンダーガストという親分だった。その後押しで郡の行政官になり、道路や庁舎の整備で手腕を見せた。1934年に連邦上院議員に当選する。「ペンダーガストの上院議員」と陰口を叩かれたが、第二次大戦が始まると、軍需産業の無駄や不正を調べる特別委員会を率い、莫大な費用を節約したとして全国に名を知られるようになった。

1944年、4期目を目指すフランクリン・ローズヴェルトの副大統領候補に選ばれた。党内の勢力争いの末の妥協の人選だった。1945年1月に副大統領に就任したが、ローズヴェルトと二人で会ったのはわずか数回で、重要な決定の場からは外されていた。4月12日、ローズヴェルトが急死する。副大統領になって82日目に、トルーマンは大統領になった。記者たちに、月と星と惑星がまとめて自分の上に落ちてきたような気がした、と語っている。
就任の後、陸軍長官から、原子爆弾を作る計画が進んでいることを初めて詳しく知らされた(マンハッタン計画)。5月にドイツが降伏し、7月、ドイツのポツダムでイギリス、ソ連の首脳と会談した(ポツダム会談)。その最中に、ニューメキシコでの原爆実験の成功の知らせが届く。8月6日に広島、9日に長崎へ原爆が投下された(広島・長崎への原爆投下)。トルーマンは後年まで、戦争を早く終わらせ、日本本土への上陸作戦で失われたはずの多くの命を救うための決定だったと言い続け、後悔していないと語った。だが、日本はすでに降伏寸前だったのではないか、ソ連への示威が目的だったのではないか、という議論はいまも続いている。

戦争が終わると、かつての同盟国ソ連との対立が深まった。1947年、トルーマンは議会で、武装した少数派や外からの圧力に抵抗する自由な人々を支援する、と演説し、ギリシアとトルコへの援助を求めた(トルーマン・ドクトリン)。ソ連の勢力がこれ以上広がるのを封じ込める、という方針の始まりである。同じ年、国務長官の名を冠したマーシャル・プランで、戦争で荒れたヨーロッパの復興に巨額の援助を注いだ。1948年にソ連が西ベルリンへの陸路を封鎖すると、空から物資を運び続けて対抗した。1949年には、アメリカが平時に初めて結ぶ軍事同盟、北大西洋条約機構が生まれた(NATOの結成)。
国内では、1948年に大統領令で軍隊の人種隔離の廃止を命じた。南部の議員の強い反発を押し切っての決定だった。同じ年、建国を宣言した直後のイスラエルを、宣言のわずか11分後に、事実上の国家として承認している。

1948年の大統領選挙では、ほとんどの世論調査と新聞が、共和党のデューイの勝利を予想した。トルーマンは列車で全国を回り、駅ごとに演説して聴衆に語りかけた。結果は逆転勝利だった。開票の夜に早刷りの新聞が「デューイ、トルーマンを破る」と見出しを打ち、それを掲げて笑うトルーマンの写真が残っている(外れた見出し)。
2期目は苦しかった。1950年6月に朝鮮戦争が始まると、すぐに軍を送った。国連軍を率いたマッカーサーは、中国軍の参戦の後、中国本土への攻撃を公然と主張し、大統領の方針に従わなかった。1951年4月、トルーマンはこの英雄的な将軍を解任した。世論は激しく反発したが、軍は選挙で選ばれた文民に従う、という原則を守った決断だったと、後には評価されるようになる。同じ頃、国内では共産主義者を探し出す動きが過熱し(マッカーシズム)、政府の中にも疑いの目が向けられた。戦争は膠着し、支持率は歴代最低の水準にまで落ちた。

1952年、トルーマンは3選を目指さずに退いた。故郷のインディペンデンスに戻り、妻と暮らした。当時は大統領経験者への年金も無く、企業の役員になる誘いも、大統領職を売ることになるとして断った。執務机には「責任はここで止まる」と書いた札を置いていたことで知られる。1972年12月26日、88歳で亡くなった。大学を出ていない最後の大統領である。
在任中は不人気だったが、後に歴史家たちの評価は大きく上がった。一方で、原爆の使用という決定は、彼の名とともに、いまも問われ続けている。