概要
イスタンブール。参謀将校。1908年、マケドニアの山で反乱の英雄。「自由の英雄」。1913年、クーデターで陸相。皇族の娘と結婚した。ドイツと組んで大戦に。1914年12月、サルカムシュで9万人をカフカスの雪で凍死させた。アルメニアの追放と虐殺の責任者の一人。1918年、ドイツの潜水艦で逃げ、ソ連に行き、中央アジアでバスマチの反乱に加わって、赤軍に撃たれた。
所属
オスマン帝国関わったできごと(2)
アルメニアのキリスト教国教化AD301年(伝承) · 責任者の一人青年トルコ革命AD1908年7月24日 · 率いた本文
1881年、イスタンブール。父は鉄道の職員(アルバニア系)、母はアルバニア人。モナスティルの陸軍幼年学校、イスタンブールの士官学校(1902年)、参謀学校(1906年、首席)。マケドニアの第3軍。ブルガリア人とギリシア人のゲリラ(コミタジ)と戦った。1906年、統一と進歩委員会(オスマン自由協会)。
1908年7月、山へ。「自由の英雄」。1909年、ベルリン駐在武官(3年。ドイツを愛した。ドイツ語、ドイツの軍、皇帝ヴィルヘルム2世)。1911〜12年、リビア(イタリアが攻めた。ベンガジで、ケマルと共に、ベドウィンを組織した)。1912年、バルカン戦争で、エディルネが落ちた。1913年1月23日、大宰相府を襲撃して、陸相ナーズム・パシャが撃たれた(エンヴェルの部下が)。「バーブ・アーリー襲撃」。7月、エディルネを取り返した(ブルガリアが他と戦っている隙に)。「エディルネの征服者」。1914年1月、陸相、参謀総長。32歳。3月、皇族の娘ナジエ(アブデュルメジトの孫)と結婚した。宮殿に住んだ。「エンヴェル・パシャ」(パシャは3月に)。
1914年8月2日、ドイツと秘密同盟(大宰相サイト・ハリム、タラート、エンヴェルの3人で。閣議に諮らず)。ドイツの軍艦ゲーベンとブレスラウを受け入れ、10月29日、それがロシアの港を撃って、参戦。
1914年12月〜1915年1月、サルカムシュ。カフカスでロシアを叩くつもりで、冬の山に9万を送って、雪と寒さで6万以上が死んだ(ロシアの弾でなく)。「エンヴェルの災い」。責任をアルメニア人の「裏切り」に向けた。1915年4月24日から、アルメニア人の追放と虐殺。タラート(内相)が指揮し、エンヴェルは軍として支えた。100万〜150万人。1915年、ガリポリ(ケマルが守った。エンヴェルはケマルの功績を小さくした)。1916年、クート(イギリス軍を降伏させた)。1917年、バグダード、エルサレムを失った。1918年、カフカスへ(トゥラン。ブレスト・リトフスクの後、バクーへ)。
1918年10月30日、ムドロス休戦。11月1日、タラート、ジェマルと共に、ドイツの潜水艦でオデッサへ。ベルリン。欠席裁判で死刑。1920年、モスクワ。レーニンに会って、「イスラームの東方でボリシェヴィキのために働く」。バクーの東方諸民族大会(1920年9月)。ケマルにアナトリアへの帰還を求めて、拒まれた。1921年、ブハラへ。ソ連のために来て、バスマチ(中央アジアのムスリムの反ソ蜂起)の側に寝返った。「イスラームの軍の総司令官、預言者の代理」。1922年8月4日、タジキスタンのバルジュヴァンの近く、赤軍の騎兵に、馬で突撃して、撃たれた。40歳。イード(犠牲祭)の日。
1996年、遺骨がタジキスタンからイスタンブールへ。自由の丘(ヒュッリイェト・テペ)に、タラートの隣に。トルコでは英雄と災いと、両方。