栗林忠道
概要
長野の生まれ。アメリカに2年駐在し、車で大陸を横断した。「アメリカと戦ってはいけない」。硫黄島の司令官。万歳突撃を禁じ、地下に潜って持久した。家族に「お勝手の床下から吹き込む隙間風を直しておくように」と手紙を書いた。最後は兵と共に突撃して、遺体は見つかっていない。
所属
日本関わったできごと(1)
硫黄島の戦いAD1945年2月19日 · 司令官本文
1891年、長野県の松代に近い村で生まれた。松代藩の藩士の家の流れである。長野中学では文章が得意で、新聞記者を志したこともあったという。だが進んだのは陸軍だった。陸軍士官学校を騎兵科で出て、陸軍大学校を優秀な成績で卒業し、天皇から軍刀を賜った。将来を嘱望された軍人だった。

1928年、アメリカへ派遣された。駐在武官の補佐として約2年、ワシントンなどに住み、大学で学びもした。自分で車を買い、アメリカの大陸を走り回って、工場や町や人々の暮らしを見た。この国の工業の力を知った栗林は、アメリカと戦うことには否定的だったと伝えられる。続いてカナダの公使館付武官も務めた。この間、幼い長男の太郎に、アメリカの風景や人々を描いた絵入りの手紙を何通も送っている。
日米が開戦した1941年(真珠湾攻撃)、栗林は南支那派遣軍の参謀長として香港攻略に加わった。1943年には東京で留守近衛第2師団の師団長になった。1944年6月、アメリカ軍がマリアナ諸島のサイパンに上陸した(サイパンの戦い)。マリアナが落ちれば、次は東京とサイパンの中間にある小笠原諸島の硫黄島が狙われる。硫黄島に飛行場があれば、マリアナから日本の都市を爆撃するB29(東京大空襲)を戦闘機で守り、傷ついた爆撃機を降ろすことができる。その直前の5月、栗林は小笠原の守備を任された第109師団の師団長に任じられ、6月に硫黄島へ渡った。

硫黄島は東西8キロほどの火山の島で、地面からは硫黄のガスが噴き出し、水は雨水しか無かった。栗林はまず、それまでの日本軍の戦い方を改めた。上陸してくる敵を海岸で迎え撃つ水際の防御は、艦砲射撃で陣地ごと吹き飛ばされることが、これまでの島々の戦いで分かっていた。栗林は主な陣地を内陸に下げ、島じゅうに地下の陣地と、それをつなぐ坑道を掘らせた。坑道は全部で18キロに及んだとも言われる。40度を超える地熱と硫黄のガスの中で、兵たちは半年以上掘り続けた。
将兵には「敢闘の誓」を配った。陣地を守り抜き、一人でも多くの敵を倒せ、という内容である。そして、追いつめられた部隊がしばしば行った万歳突撃を禁じた。最後の突撃で一度に死ぬよりも、生きて陣地にとどまり、一日でも長く敵を引き止めるほうが本土のためになる、という考えだった。救援が来る見込みはなく、島の守備隊が生き残る道ははじめから無かった。

島で栗林は、家族に41通の手紙を書いた。厳しい戦況にはほとんど触れず、妻には台所の床下から吹き込む隙間風を防ぐ工夫を細かく書き送り、疎開した娘のたか子には体を大事にするよう繰り返した。家の整理はついたか、と気づかい、自分は帰れないものと思ってほしい、とも書いた。最高指揮官の手紙とは思えない、細やかな父親の手紙である。
1945年2月19日、アメリカ軍の海兵隊が上陸した(硫黄島の戦い)。上陸前の数日にわたる砲爆撃でも地下の陣地はほとんど崩れず、海岸に上がった海兵隊は、姿の見えない日本軍から激しい砲火を浴びた。アメリカ軍は5日ほどで島を取れると見ていたが、戦いは1か月以上続いた。2月23日、島の南端の摺鉢山の頂に星条旗が立てられ、その写真はアメリカで戦争の象徴になった。だが、戦いはその後も北部で続いた。

3月16日、栗林は大本営に最後の電報を送った。そこに添えた辞世は、国のための重い務めを果たせないまま、矢も弾も尽きて散るのが悲しい、という意味の歌だった。新聞に載ったとき、結びの「散るぞ悲しき」は「散るぞ口惜し」に変えられていた。悲しいという言葉は、指揮官の言葉としてふさわしくないとされたのである。翌日、栗林は大将に昇進した。
3月26日の夜明け前、栗林は残った兵400人ほどとともに、アメリカ軍の陣地に最後の攻撃をかけた。万歳を叫んで突っ込むのではなく、闇に紛れた組織的な夜襲だった。栗林はこの攻撃の中で戦死したとされるが、階級章を外していたとも言われ、遺体は見つかっていない。満53歳だった。
日本軍の守備隊およそ2万1千人のうち、生き残って捕虜になったのは千人ほどにすぎない。アメリカ軍も6800人あまりが戦死し、負傷者を合わせた損害は日本軍の死者の数を上回った。アメリカ軍の上陸作戦で、攻める側の損害が守る側を上回った数少ない戦いである。アメリカの軍人や研究者の間では、栗林は手ごわく優れた指揮官として高く評価されてきた。2006年にはクリント・イーストウッド監督が、日米それぞれの側からこの戦いを描いた2本の映画を作り、栗林の名は広く知られるようになった。
硫黄島はいま自衛隊の基地になっていて、一般の人は自由に行けない。2万人を超える日本兵の遺骨のうち、半数ほどはまだ島の土の中にあり、収集の作業が続いている。台所の隙間風を気にかけた父親の手紙は、本にまとめられて今も読まれている。