イタリアのエチオピア侵攻
概要
毒ガスが使われた。国際連盟は止められず、集団安全保障が機能しないことがはっきりする。
場所
9.03°N 38.74°E · エチオピア
関わった人(2)
ベニート・ムッソリーニAD1883年7月29日–AD1945年4月28日 · 侵攻を命じたハイレ・セラシエ1世AD1892年7月23日–AD1975年8月27日 · 国際連盟で訴えた本文
1896年、イタリアはエチオピアに攻め込み、アドワの戦いで大敗した。ヨーロッパの国がアフリカの国に正面から負けた、ほとんど唯一の戦いである。以後エチオピアは、アフリカ分割のさなかに独立を保った数少ない国となり、1923年には国際連盟にも加盟していた。
40年後、ローマで権力を握っていたベニート・ムッソリーニにとって、エチオピアは古い傷であり、手の届く獲物だった。イタリアはすでに北のエリトリアと南東のソマリランドを植民地として持っていた。その間をつなげば、東アフリカに大きな植民地ができる。ローマ帝国の再興をうたう独裁者には、国内に見せる勝利も要った。

口実になったのは、1934年12月にエチオピアとイタリア領ソマリランドの境の井戸ワルワルで起きた衝突である。国境の線そのものがあいまいな場所だった。エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世は国際連盟に仲裁を求めたが、話し合いが長引くあいだに、イタリアはスエズ運河を通して兵と物資を東アフリカへ送り続けた。
1935年10月3日、イタリア軍は宣戦布告のないまま北と南から国境を越えた。戦車と航空機を持つ近代的な軍に対し、エチオピア軍の多くは旧式の小銃と槍で戦った。それでも進撃は思うように進まず、ムッソリーニは指揮官を替え、手段を選ばなくなる。イタリア軍は航空機からイペリット(マスタードガス)を撒いた。兵士だけでなく、村や家畜、水場にも降らせている。1925年のジュネーヴ議定書は戦争での毒ガスの使用を禁じており、イタリアもこれを批准していた。イタリアの政府は長くこの事実を認めず、公式に認めたのは1990年代になってからである。

国際連盟の動きは、初めは速かった。10月のうちにイタリアを侵略国と認め、11月には加盟国に経済制裁を求めた。武器の輸出と、イタリアへの融資と、イタリアからの輸入を止める。連盟ができてから初めての本格的な制裁だった。
ただし、肝心のものが外された。戦車と航空機を動かす石油である。イギリスが握るスエズ運河も閉じられなかった。イギリスとフランスは、ムッソリーニをヒトラーの側へ追いやることを恐れていた。12月には両国の外相が、エチオピアの領土の大半をイタリアに渡す和平案をひそかにまとめていたことが新聞に漏れる。イギリスでは世論の怒りで外相ホーアが辞任したが、制裁が強まることはなかった。

1936年3月、エチオピアの主力はマイチャウの戦いで敗れた。皇帝は5月2日に首都を離れて国外へ逃れ、5日にイタリア軍がアディスアベバに入った。9日、イタリア国王がエチオピア皇帝を兼ねると宣言され、エチオピアはエリトリア、ソマリランドと合わせてイタリア領東アフリカになった。6月30日、ハイレ・セラシエはジュネーヴの連盟総会の演壇に立ち、ハイレ・セラシエの国際連盟演説で、きょうはエチオピアだが明日はあなたがたの番だ、と訴えた。翌7月、連盟は制裁をやめた。
占領は平穏ではなかった。1937年2月、副王グラツィアーニの暗殺が企てられると、首都でイタリア人による報復の殺戮が数日続いた。犠牲者の数は数千とも数万とも言われ、いまも確定していない。地方では愛国者と呼ばれた抵抗の戦士たちが山にこもって戦い続け、イタリアは国土の全体を押さえきることができなかった。

この間、ヨーロッパの地図は動いていた。エチオピアでの戦争が続いていた1936年3月、ヒトラーは非武装とされていたラインラントへ軍を進めた。英仏の目がアフリカと地中海に向いていたことは、ヒトラーにとって好都合だった。同じ年の秋、イタリアとドイツは「枢軸」を名乗って接近し、イタリアは1937年に国際連盟を脱退した。
1941年、第二次世界大戦の中でイギリス軍とエチオピアの抵抗勢力がイタリア軍を破り、ハイレ・セラシエは5年ぶりにアディスアベバへ戻った。侵略を止められなかった国際連盟は、すでに戦争を防ぐ力を持たないことが明らかになっていた。侵略には集団で立ち向かうという考え方は、この失敗の記憶を抱えたまま、戦後の国際連合へ引き継がれていく。