マルヌの戦い

概要
開戦から5週間、ドイツ軍はパリの40キロ手前まで来ていた。シュリーフェン計画。右翼が内側に曲がり、パリの守備隊がタクシー600台で兵を運んで側面を突いた。ドイツは退いた。「奇跡」。それから塹壕が海まで伸び、4年動かなかった。
場所
48.96°N 2.88°E · フランス
本文
ドイツは、二つの方向からの戦争を恐れていた。西のフランスと、東のロシアである。その答えとして、参謀総長シュリーフェンが1905年にまとめた構想が、のちに「シュリーフェン計画」と呼ばれる。ロシアは国が広く、兵を集めるのに時間がかかる。その間に、まず全力でフランスを倒す。フランスが国境に築いた要塞を正面から攻めるのではなく、中立国ベルギーを通って北から大きく回り込み、パリの西を回ってフランス軍を背後から包む。右翼の最後の兵は、袖で英仏海峡をかすめるほどに西を回れ、とシュリーフェンが言ったという話が伝わる。6週間ほどでフランスを片づけ、軍を東へ移す、という計算だった。
1914年8月、第一次世界大戦が始まると、ドイツは計画どおりベルギーに攻め込んだ。リエージュの要塞を重砲で砕き、8月20日にはブリュッセルに入った。中立を侵されたベルギーを守るという理由で、イギリスも参戦した。一方のフランス軍は、ドイツとの国境のロレーヌやアルデンヌで攻勢に出た。赤いズボンをはいた歩兵が、銃剣突撃の精神を信じて機関銃と大砲に向かって進んだ。8月22日、フランス軍は一日でおよそ2万7000人の戦死者を出した。フランス軍の歴史で最悪の一日とされる。国境の戦いに敗れたフランス軍とイギリス軍は、南へ退き続けた。

9月の初め、ドイツ軍の右翼を担う第1軍の先頭は、パリまで40キロほどのところに迫っていた。フランス政府はパリを離れ、ボルドーへ移った。1870年のスダン(セダン)の戦いのあと、パリがドイツ軍に包囲された記憶は、まだ多くの人に生々しかった。だがこのとき、ドイツ軍の計画は、すでに現場で変わり始めていた。第1軍を率いるクルックは、退くフランス軍を追い、また左隣の第2軍との間が開きすぎないよう、パリの西を回るのをやめて、パリの東側を南へ進路を変えていた。それは、パリを守る軍の前を、側面をさらして横切ることを意味した。
パリの防衛を任されていたのは、65歳の老将ガリエニだった。偵察の飛行機の報告で、ドイツ軍の側面が開いていることを知ったガリエニは、総司令官ジョッフルに反撃を強く進言した。ジョッフルは、長い退却を止め、全線で攻勢に転じると決めた。9月6日の朝に兵士たちに読み上げられた命令は、もはや後ろを振り返るときではない、前に進めない部隊は、どんな犠牲を払っても陣地を守れ、退くことは許されない、という悲壮なものだった。

9月5日から6日にかけて、パリから出撃したフランス第6軍が、マルヌ川の支流ウルク川のあたりで、クルックの第1軍の側面を突いた。クルックは軍の向きを変えて西に応戦し、第6軍を押し返しかけた。だがそのために、第1軍と第2軍の間に、50キロ近い隙間が開いた。その隙間に、イギリス派遣軍とフランス第5軍が、ゆっくりと入り込んでいった。
この戦いには、のちに伝説となる場面がある。援軍を急いで前線に送るため、パリの軍当局はタクシーを集めた。9月7日の夜から8日にかけて、600台ほどのルノーのタクシーが、兵士を乗せて前線近くまで何度も往復した。運んだ兵は数千人で、戦いの大勢を左右するほどの数ではなかった。だが運転手たちがメーターを回し、あとで軍がきちんと料金を払ったという話とともに、市民が国を救ったマルヌのタクシーの物語は、フランスで長く語り継がれた。

ドイツ軍の最高司令部は、遠く離れたルクセンブルクにあった。参謀総長の小モルトケは、通信の不足で前線の状況をつかめず、焦りを深めていた。彼は参謀将校のヘンチ中佐を前線に送り、各軍の様子を確かめさせ、必要なら退却を調整する権限を与えた。第1軍と第2軍の間の隙間に敵が入り込んでいるのを見たヘンチの判断もあって、9月9日、ドイツ軍の右翼は退却を始めた。
ドイツ軍はエーヌ川まで退き、高地に塹壕を掘って踏みとどまった。フランスとイギリスの軍も、それを正面から破ることはできなかった。両軍は、互いに相手の北側の側面を回り込もうとして、北へ北へと戦線を延ばしていった。「海への競走」と呼ばれる動きである。10月の終わりには、両軍の戦線は北海の海岸に達した。こうして、スイスの国境から北海まで、700キロを超える塹壕の線ができあがった。この線は、その後4年近く、ほとんど動かなかった。

小モルトケは、皇帝に、陛下、我々は戦争に負けました、と告げたと伝えられる。本当にそう言ったのかは分からないが、短期間でフランスを倒すという計画が崩れたことは明らかだった。彼は9月半ばに事実上指揮を外され、後任にファルケンハインが就いた。
戦いの前、ドイツは、予想よりも早く動員を進めたロシア軍が東プロイセンに攻め込んだことに慌て、西部から2個軍団を東へ送っていた。この軍団は東部のタンネンベルクの戦いには間に合わず、西部のマルヌでは兵が足りなかった、という指摘がある。シュリーフェン計画は、モルトケが手を加えて弱めたから失敗したのか、それとも初めから補給や兵の疲れを考えれば無理な計画だったのか。この問いは、いまも歴史家の間で議論されている。
マルヌの戦いは、フランスでは「マルヌの奇跡」と呼ばれる。パリは救われ、ドイツの短期決戦の望みは消えた。だが、その代わりに始まったのは、ソンムの戦いに代表される、塹壕を挟んで何十万という命を消耗する長い戦争だった。開戦から最初の2か月ほどで、フランス軍は数十万の死傷者を出していた。

そして1918年の夏、ドイツ軍が最後の大攻勢をかけたとき、その進撃が止まったのも、同じマルヌ川だった。第二次マルヌの戦いと呼ばれる。4年前と同じ川で、戦争の行方は再び変わった。