できごと

ミュンヘン会談

Munich Agreement
AD1938年9月30日
重要度 5
大英帝国ソビエト連邦デンマークフランス領西アフリカアルジェリア(フランス領)ポルトガル帝国フランス領赤道アフリカサウジアラビアイランリビアEmirate of Bin Shal'anエジプトスウェーデンノルウェードイツフィンランドフランススペインMesopotamia (GB)トルコポーランドMorocco (France)HejazルーマニアイタリアSyria (France)イギリスYugoslaviaMuscat and OmanOman (British Raj)Trucial OmanアルメニアチュニジアRio De OroギリシャハンガリーブルガリアCzechoslovakiaHailラトビアアイルランドSpanish SaharaリトアニアエストニアAD1938年9月30日ミュンヘン
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概要

チェコスロヴァキアのズデーテンを、当のチェコ抜きで英仏がヒトラーに渡した。チェンバレンは紙を振って「我々の時代の平和」。6か月後、ヒトラーはプラハに入った。「宥和」は、それ以来、譲歩の悪い名前になった。

場所

ミュンヘン
48.14°N 11.58°E · ドイツ

関わった人(3)

ヒトラーAD1889年4月20日–AD1945年4月30日 · 要求ネヴィル・チェンバレンAD1869年3月18日–AD1940年11月9日 · 譲ったベニート・ムッソリーニAD1883年7月29日–AD1945年4月28日 · 仲介

本文

1938年3月、ヒトラーはオーストリアを併合した(オーストリア併合)。次の標的は、三方をドイツに囲まれる形になったチェコスロヴァキアだった。第一次大戦後に生まれたこの国は、中欧でほぼ唯一、議会制民主主義を保っていた。国境の山地ズデーテン地方には約300万人のドイツ系住民が住み、コンラート・ヘンラインの率いるズデーテン・ドイツ人党が、ヒトラーの指示を受けながら自治を、やがてドイツへの編入を求めた。山地には国境の要塞が連なり、シュコダの兵器工場もあった。

5月、ドイツ軍が動くという噂にチェコスロヴァキアが部分動員で応え、ヒトラーは引き下がった形になった。面子をつぶされたヒトラーは、秋までにチェコスロヴァキアを武力で片づけると軍に命じた。9月12日、ニュルンベルクの党大会で、ズデーテンのドイツ人を見捨てないと演説し、現地では騒乱が起きた。

会談を終えヘストン飛行場(英語版)に到着したイギリス首相ネヴィル・チェンバレン。
会談を終えヘストン飛行場(英語版)に到着したイギリス首相ネヴィル・チェンバレン。Wikimedia Commons Ministry of Information official photographer · Public domain

戦争を避けようとしたのが、イギリスの首相ネヴィル・チェンバレンである。69歳のチェンバレンは9月15日、生まれて初めて飛行機に乗り、ベルヒテスガーデンのヒトラーの山荘を訪ねた。ヒトラーがズデーテンの割譲を求めると、イギリスとフランスはチェコスロヴァキアの大統領ベネシュに受け入れを迫り、ベネシュは応じた。ところが9月22日、ゴーデスベルクで再び会うと、ヒトラーは要求を吊り上げ、10月1日までにドイツ軍が占領すると言った。交渉は決裂し、チェコスロヴァキアは総動員をかけ、ロンドンでは公園に塹壕が掘られ、ガスマスクが配られた。

9月27日、チェンバレンはラジオでこう語った。遠い国の、我々の何も知らない人々の争いのために、ここで塹壕を掘りガスマスクを試しているとは、何と恐ろしく、信じがたいことか。翌28日、議会で演説している最中に、ベニート・ムッソリーニの仲介でヒトラーが四国会談に応じたという知らせが届き、議場は歓声に包まれた。

会談から戻ったダラディエ首相とボネ外相
会談から戻ったダラディエ首相とボネ外相Wikimedia Commons Anonymous Unknown author (Keystone-France) · Public domain

9月29日、ミュンヘンの総統館に、ヒトラー、ムッソリーニ、チェンバレン、フランスの首相ダラディエが集まった。当事者のチェコスロヴァキアは招かれず、代表は別室で待たされた。ソ連も呼ばれなかった。ソ連はチェコスロヴァキアと相互援助条約を結んでいたが、フランスが先に援助することが条件だった。会談の土台となった案は、ムッソリーニが自分の案として出したが、実はドイツ側が用意したものだった。

日付が変わった9月30日の未明、協定が署名された。ドイツ軍は10月1日から10日までの間にズデーテンを段階的に占領する。境界の細部は国際委員会が決め、一部では住民投票を行う。英仏は残ったチェコスロヴァキアの国境を保証する。午前2時過ぎ、待たされていたチェコスロヴァキアの代表は結果を告げられ、受け入れるしかなかった。

ズデーテン・ドイツ人党党首コンラート・ヘンライン
ズデーテン・ドイツ人党党首コンラート・ヘンラインWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その朝、チェンバレンはヒトラーの私邸を訪ね、英独両国民は二度と戦わないという短い宣言に署名させた。ロンドン近郊のヘストン飛行場に降り立つと、チェンバレンはその紙を掲げて見せた。首相官邸の窓からは群衆に向かって、ドイツから名誉ある平和を持ち帰った、これは我々の時代の平和だと信じる、と語った。国民の多くは安堵し、チェンバレンを歓呼で迎えた。一方、チャーチルは10月5日の下院で、我々は完全で全面的な敗北を喫したと述べた。

チェコスロヴァキアは国境の要塞線と、工業の大きな部分を失った。11月にはハンガリーが南部を、ポーランドがテシーン地方を奪った。そして1939年3月15日、大統領ハーハはベルリンに呼びつけられ、深夜の脅迫のさなかに倒れた末に、国をドイツの保護に委ねる文書に署名した。ドイツ軍はプラハに入り、ボヘミアとモラヴィアは「保護領」となった。ズデーテンのドイツ人を救うという口実は、ここで崩れた。

チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュ
チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュWikimedia Commons Unknown Unknown . Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 19 · Public domain

英仏はようやく方針を改め、3月31日、ポーランドの独立を保証した。ソ連は西側を信用せず、8月、ドイツと独ソ不可侵条約を結んだ。9月1日、ドイツはポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が始まった。

ミュンヘン会談の評価は今も分かれる。チェンバレンは時間を稼ぎ、その1年でイギリスの戦闘機と防空の態勢が整った、という擁護がある。一方で、1938年のチェコスロヴァキアには30を超える師団と堅固な要塞があり、ドイツ軍の内部にもヒトラーを止めようとする動きがあったのに、それを捨てて、1年後により不利な条件で戦うことになった、という批判も根強い。

1935〜38年に築かれたチェコスロバキアの国境要塞
1935〜38年に築かれたチェコスロバキアの国境要塞Wikimedia Commons 1089hruskapetr · CC BY 3.0

「ミュンヘン」はその後、独裁者への譲歩を戒める合言葉になった。1956年のスエズ危機で、イギリスの首相イーデンはエジプトのナセルをヒトラーになぞらえ、アメリカの指導者たちもベトナムや湾岸の戦争でミュンヘンの教訓を口にした。その教訓が新しい戦争を正当化する道具にもなった、という指摘もある。チェコでは、自分たち抜きで自分たちのことが決められたこの会談を、「我々について、我々抜きで」という言葉とともに記憶している。ベネシュは亡命先から1945年に帰国したが、1948年のチェコスロヴァキアの二月事件で共産党に実権を奪われた。

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