できごと

捕虜の消息を集める

International Prisoners-of-War Agency
AD1914年8月21日
重要度 4
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概要

第一次世界大戦が始まって三週間、ジュネーヴの赤十字国際委員会は、美術館の建物を借りて捕虜の消息を扱う窓口を開いた。家族からは「息子は生きているか」という手紙が届き、交戦国からは捕らえた兵の名簿が届く。その二つを突き合わせるために、名前ごとに一枚のカードを作り、国籍と身分で分けて並べた。ボランティアは千人を超え、戦争が終わるころ、カードは六百万枚を超えていた。消息が分かれば家族に知らせ、手紙と小包の通り道にもなった。一人ひとりの名前を、国の数ではなく紙の一枚として扱う仕組みだった。

場所

ジュネーヴ
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)

本文

1859年6月、北イタリアのソルフェリーノで、フランスとサルデーニャの連合軍がオーストリア軍と戦った。一日の戦いで、両軍の死傷者は数万にのぼった。たまたま近くを通りかかったジュネーヴの実業家アンリ・デュナンは、手当てもされずに置き去りにされた負傷兵たちを目にし、近くの町の女たちと一緒に、敵味方を問わず水を運び、傷を洗った。その体験をつづった本が『ソルフェリーノの思い出』である。

この本に動かされたジュネーヴの市民たちが、1863年、5人の委員会を作った。のちの赤十字国際委員会である。翌1864年には、戦場の負傷者を敵味方の区別なく保護し、手当てする者を攻撃しないことを定めた第一回ジュネーヴ条約が結ばれた。1870年に普仏戦争が起きると、委員会はスイスのバーゼルに、負傷兵や捕虜の消息を扱う窓口を設けた。家族と戦場をつなぐ仕事の始まりだったが、その規模はまだ小さかった。

1914年8月、第一次世界大戦が始まった。ヨーロッパの国々は何百万という兵を動員し、開戦からわずか数週間で、何十万もの兵士が敵の捕虜になった。前線の混乱の中で、家族のもとには何の知らせも届かない。息子は戦死したのか、捕らえられたのか、行方が分からないままなのか。戦場から届かない手紙を待つ家族が、ヨーロッパじゅうにいた。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

開戦から3週間後の8月21日、赤十字国際委員会は、ジュネーヴに国際捕虜中央案内所を開いた。問い合わせはたちまち押し寄せ、最初の部屋はすぐに手狭になった。委員会は、旧市街にあるラート美術館の建物を借り受けた。展示されていた絵を片付け、広間に机を並べて、窓口はそこに移った。

窓口に届くものは、大きく二つあった。一つは家族からの手紙である。息子の消息を知りたい、という問い合わせに、名前、生まれた年と場所、所属していた部隊、最後に手紙が来た日などが書かれていた。もう一つは交戦国からの名簿である。1907年のハーグの条約は、捕虜を取った国にその情報を集めて伝える務めを定めており、各国は捕らえた兵士の名簿や、捕虜が死んだときの通知を送ってきた。窓口の仕事は、この二つを突き合わせることだった。

その方法は、名前ごとに一枚のカードを作ることだった。家族から問い合わせが届けば、尋ねられた兵士の名前で一枚のカードを作る。交戦国の名簿に名前があれば、その兵士についても一枚作る。カードは国籍ごと、兵士か民間人かで分け、名前のアルファベット順に並べた。同じ名前のカードが二枚並べば、生まれた年や出身地、部隊を照らし合わせる。合えば、家族に、息子がどこの収容所にいるか、あるいは亡くなったことを知らせた。

これは、言葉で言うほど簡単ではなかった。同じ名前の兵士が何百人もいる。名簿の綴りは、書き写すたびに揺れる。ドイツ語の名前をフランスの役人が聞き取って書き、それを別の国の人が読む。だから、名前だけでなく、生まれた年や村の名、連隊の番号といった手がかりを組み合わせて、一人を見分ける工夫が重ねられた。カードを分類する仕組みづくりでは、のちに委員会で初めての女性の委員となるマルグリット・クラメールらが大きな役割を果たしたとされる。

仕事を支えたのは、ジュネーヴの市民たちだった。多いときには1000人を超える人々が、ほとんど無報酬で働いた。その多くは女性で、学生や教師、家庭の主婦、ジュネーヴに来ていた外国人もいた。毎日何千通という手紙を開き、カードを書き、並べ、照らし合わせた。作家のロマン・ロランも、この窓口で働いた一人である。

戦争が終わるころ、カードは600万枚を超えていた。窓口が扱った捕虜は200万人を超えるとされる。窓口は、消息を伝えるだけではなかった。捕虜と家族の間の手紙の受け渡しを助け、家族からの小包を収容所へ届ける道筋を整えた。委員会の代表は各国の捕虜収容所を訪ね、捕虜が食べ物や住まいの面でどのように扱われているかを確かめて、改善を求めた。1917年、赤十字国際委員会はノーベル平和賞を受けた(ノーベル賞の始まり)。大戦中に平和賞が贈られたのは、この一度だけである。

この経験は、戦後の取り決めに生かされた。1929年に結ばれた捕虜の待遇に関するジュネーヴの条約は、中立国に中央の捕虜情報の窓口を置くことを定めた。第二次世界大戦では、同じ仕組みがさらに大きな規模で動き、扱ったカードは数千万枚に達した。

戦争は人を数で扱う。師団の数、損害の数、捕虜の総数。新聞は何万人が倒れたと書き、将軍たちは何個師団を失ったと報告する。この窓口がしたのは、その逆だった。一人の兵士を、一枚の紙として扱う。そして、その紙の向こうには、知らせを待つ一つの家族がいる。

第一次世界大戦のカードは、いまもジュネーヴに保管されている。2007年、捕虜の記録はユネスコの「世界の記憶」に登録され、開戦から100年にあたる2014年には、誰でも名前で調べられるよう公開された。いまも、曾祖父の行方を探す人々が、カードの写しを見に来る。

消息を探す仕事は、戦争が終わった後も続く。第二次世界大戦の後、中国東北部に取り残された日本人の子どもたちが、30年以上たって肉親を探しに日本を訪れたのも、同じ営みの一つだった(残留孤児の訪日調査)。赤十字国際委員会は、いまも世界の紛争地で、引き離された家族の消息をつなぐ仕事を続けている。

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