概要
1925年4月22日、国の形(国体)を変えることや、私有財産の制度を否定することを目的に、結社を作ったり加わったりした者を罰する治安維持法が公布された。この年、25歳以上のすべての男に選挙権を与える法も成り、ソ連と国交を結んでいた。共産主義の広がりを抑える狙いだった。1928年には最高刑が死刑に引き上げられ、取り締まりの網は共産主義者から、労働運動、自由主義の学者、宗教団体へと広がった。特高警察の拷問で死んだ者も出た。1941年の改正では、刑期を終えた者を閉じ込め続けることもできるようになった。敗戦後の1945年10月、占領軍の指令で廃止された。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
ロシア革命のあと、共産主義の思想は日本にも入ってきた。1922年には、ひそかに日本共産党が作られた。1925年1月、日本はソ連と国交を結び、人の行き来が増えることが予想された。5月には、25歳以上のすべての男に選挙権を与える法が成る(普通選挙法)。選挙権を得た労働者や農民が、社会主義の政党を支持することを、政府は恐れた。
1925年4月22日、治安維持法が公布された。「国体を変革し、または私有財産制度を否認すること」を目的として結社を組み、あるいはそれと知って加わった者を、10年以下の懲役か禁錮に処す。国体とは、天皇が国を治めるという国の形のことである。何をしたかではなく、何を目指す集まりに加わったかを罰する法だった。
1928年3月15日、政府は全国で共産党員と支持者を一斉に捕らえた。同じ年、治安維持法は緊急の勅令で改められ、結社を率いた者には死刑も科せるようになった。特別高等警察、いわゆる特高が、思想を取り締まる役を担った。1933年、プロレタリア文学の作家小林多喜二は、特高に捕らえられたその日のうちに拷問で殺された。
取り締まりの網は、しだいに広がった。共産党が壊滅したあとは、労働運動や農民運動、自由主義の学者、さらには新しい宗教の団体にまで向けられた。創価教育学会の牧口常三郎は、神社のお札を拒んで捕らえられ、獄中で死んだ(創価学会の始まり)。1941年の全面的な改正では、刑期を終えても考えを改めない者を閉じ込めておく予防拘禁が加わった。
1945年8月の敗戦のあとも、法はしばらく生きていた。9月26日、哲学者の三木清が、獄中で病のため死ぬ。その知らせに衝撃を受けた占領軍は、10月4日、政治犯の釈放と、思想を取り締まる法の廃止を命じ、治安維持法は10月15日に廃止された。この法のもとで捕らえられた人は、数万人にのぼる。