トリニティ実験

概要
人類が最初に核爆弾を爆発させた。夜明け前の砂漠で試されたのは、3週間後に長崎で使われるのと同じ型だった。広島の型は試さずに使われている。
場所
33.68°N -106.48°E · アメリカ合衆国・ニューメキシコ州
関わった人(1)
ロバート・オッペンハイマーAD1904年4月22日–AD1967年2月18日 · 開発を率いた本文
1945年7月16日、現地時間の午前5時29分45秒。アメリカ南西部、ニューメキシコ州の砂漠で、高さ30メートルほどの鉄塔の上に据えられた球形の装置が爆発した。夜明け前の暗い砂漠が、一瞬にして真昼より明るくなった。9キロから十数キロ離れた観測所で地面に伏せ、溶接用の黒いガラス越しに見ていた科学者たちの前で、火の玉は膨らみ、色を変えながら、キノコの形の雲となって空高く昇っていった。人類が初めて核爆弾を爆発させた瞬間である。この試験は「トリニティ(三位一体)」と名づけられていた。
始まりは7年前にさかのぼる。1938年の暮れ、ドイツの化学者たちが、ウランの原子核に中性子を当てると二つに割れることを見つけた(核分裂の発見)。割れるときに莫大なエネルギーが出て、さらに中性子が飛び出す。その中性子が次の原子核を割れば、反応は連鎖的に広がる。物理学者たちはすぐに、これが恐ろしい爆弾になりうることに気づいた。ナチス・ドイツが先に作るのではないかという恐れから、亡命していた科学者たちはアメリカ大統領に開発を促す手紙を送った。その手紙にはアインシュタインも署名している。
1942年、アメリカは原子爆弾を作る国家計画を本格的に始めた(マンハッタン計画)。最盛期には十数万人が関わり、テネシーやワシントン州に巨大な工場が建てられた。爆弾そのものの設計は、ニューメキシコの山上に新しく作られた秘密の研究所ロスアラモスで行われ、その所長に選ばれたのが、カリフォルニア大学の理論物理学者ロバート・オッペンハイマーだった。

爆弾の材料には二つの道があった。一つはウランのうち、核分裂しやすいごくわずかな種類だけを集めたもの。もう一つは、原子炉の中で人工的に作られる元素プルトニウムである。ウランなら、二つの塊を砲身の中で撃ち合わせて一つにするだけで爆発させられる。仕組みが単純で、確実に動くと見込まれた。ところがプルトニウムでは、この方法だと反応が早く始まりすぎて、ほとんど爆発せずに飛び散ってしまうことが1944年に分かった。
そこで考え出されたのが「爆縮」という方法である。プルトニウムの球のまわりを、精密に形を整えた火薬のレンズで囲み、全体を同時に爆発させる。内側へ向かう衝撃波で球を均等に押し潰し、密度を一気に高めて連鎖反応を起こす。理屈は分かっていても、何十か所もの火薬を百万分の一秒単位でそろえて爆発させるのは至難の業だった。本当に動くのかどうか、実際に爆発させて確かめるしかなかった。それがトリニティ実験の目的である。

試験の場所に選ばれたのは、スペイン人の入植者が「死者の旅路」と呼んだ乾いた盆地だった。科学者の中には、爆発が大気に火をつけて地球全体を焼き尽くすのではないかと心配した者もいた。計算でその恐れはほぼないとされていたが、イタリア出身の物理学者フェルミは、試験の前夜、大気に火がつくかどうか賭けをしないかと同僚たちに持ちかけて周りを困らせたという。当日は雷雨で予定が延び、空が晴れ始めた夜明け前に、ようやく秒読みが始まった。
爆発の威力は、火薬に換算して2万トン前後とされる。閃光は数百キロ離れた場所からも見え、近くの町の住民には、弾薬庫の爆発事故だという説明が流された。フェルミは、衝撃波が届いたとき手にしていた紙片を落とし、それが飛ばされた距離から、その場で威力をおおよそ見積もった。爆心の砂は高熱で溶けて、緑がかったガラスに変わった。

試験の責任者だった物理学者ベインブリッジは、成功を見届けたオッペンハイマーに「これで我々はみんな、ろくでなしになった」という意味の言葉をかけたと伝えられる。オッペンハイマー自身は、20年後のテレビのインタビューで、このときヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、「我は死なり、世界の破壊者なり」を思い出したと語った。ただ、その場にいた弟の回想では、彼はただ「うまくいった」と言ったという。有名な一節は、のちに彼が自分の体験を振り返って語った言葉と考えるのが自然だろう。
ちょうどそのころ、ドイツ郊外のポツダムでは、大統領ハリー・トルーマンがイギリスのチャーチル、ソ連のヨシフ・スターリンと、戦後の処理について話し合おうとしていた(ポツダム会談)。成功の第一報は、その日の夜に暗号でトルーマンに届いた。数日後、詳しい報告を読んだトルーマンは、スターリンに、並外れた破壊力を持つ新しい兵器を手にしたと伝えた。スターリンは驚いた様子を見せなかった。ソ連はスパイを通じて、計画の中身をすでに知っていたのである。

それから3週間後、原子爆弾は日本に使われた(広島・長崎への原爆投下)。8月6日に広島に落とされたのは、ウランを使う砲身型の爆弾で、仕組みが単純だったため、一度も試験されずに使われた。8月9日に長崎に落とされたのは、トリニティで試されたのと同じプルトニウムの爆縮型である。その年の末までに、二つの都市で合わせて20万人ほどが亡くなったと推計されている。
トリニティの砂漠で始まった核の時代は、その後の世界を形づくった。ソ連は1949年に最初の核実験を行い、米ソは競って核兵器を増やした。1954年にはビキニ環礁の水爆実験で日本の漁船が被曝した(第五福竜丸)。核兵器を持つ大国どうしが正面から戦えば互いに滅びるという恐れは、冷戦が熱い戦争にならなかった理由の一つとされる一方で、1962年のキューバ危機のように、世界を破滅の淵に立たせもした。試験場の近くに住んでいた人々は、降り注いだ放射性の灰について長く知らされなかった。

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』は、科学と国家と資本が手を結んだ近代の行き着いた先として、この試験を挙げている(物語「『サピエンス全史』で読む歴史」)。原子核を割る現象が見つかってから、都市を一発で消す兵器が完成するまで、わずか7年。人類は、自らを滅ぼすことのできる力を初めて手にした。試験場の跡には、いま小さな黒い石の記念碑が立ち、年に一度か二度だけ一般の人に公開されている。