概要
占領されたデンマークでは、政府が残ってドイツと協力する形をとり、ユダヤ人は3年のあいだ手を付けられなかった。1943年秋、ドイツは一斉検挙を決める。ドイツ大使館の海運担当ドゥクヴィッツがその日取りを漏らし、10月1日の夜に兵が家々を回ったとき、ほとんどのユダヤ人は隣人や見知らぬ人にかくまわれていた。それから数週間、漁師たちが夜の海峡を小舟で往復し、七千人あまりを中立のスウェーデンへ渡した。捕まったのは五百人に満たない。デンマークのユダヤ人の九割以上が、ホロコーストを生き延びた。
場所
55.68°N 12.57°E · デンマーク
本文
1940年4月、デンマークは数時間でドイツに降伏した。ドイツはデンマークを「模範の保護国」として扱い、国王も政府も議会も警察も残した。デンマークの政府は、国内のおよそ七千五百人のユダヤ人に手を出さないことを、協力の条件として譲らなかった。ユダヤ人に黄色い星を付けさせることも行われなかった。
1943年夏、各地でストライキと破壊工作が広がると、ドイツは戒厳令を敷き、デンマークの政府は職務を止めた。ドイツの全権代表ベストは、この機に一斉検挙をベルリンに提案し、日取りは10月1日の夜と決まった。ところが、ドイツ大使館で海運を担当していたゲオルク・ドゥクヴィッツが、この計画をデンマークの社会民主党の政治家に漏らした。知らせは、ユダヤ教の新年の礼拝に集まった人々に伝えられ、そこから口づてに広がった。
10月1日の夜、兵が家々を回ったとき、多くの家は空だった。ユダヤ人は、友人や同僚、教会や病院、ときには見知らぬ人の家にかくまわれていた。中立のスウェーデンは、ニールス・ボーアの働きかけもあって、デンマークのユダヤ人を受け入れると公に放送した。
それから数週間、デンマークの東の海岸から、漁船や小舟が夜の海峡を渡った。狭いところでは数キロしかない。料金を取る漁師もいたが、市民が金を集めて払った。七千人あまりのユダヤ人と、ユダヤ人でない家族およそ七百人がスウェーデンへ逃れた。捕まった五百人足らずは、チェコのテレージエンシュタットの収容所に送られたが、デンマークの役所が食料の小包を送り続け、彼らの消息を問い続けた。そこで死んだのはおよそ五十人だった。ホロコーストのなかで、一国のユダヤ人がこれほど多く助かった例はほかに無い。