人物

ベニート・ムッソリーニ

Benito Mussolini
AD1883年7月29日 – AD1945年4月28日(享年61)
イタリア重要度 4

概要

ファシズムという言葉を作り、ヒトラーより先に政権を取った。エチオピアに毒ガスを使う。

関わったできごと(2)

イタリアのエチオピア侵攻1935年 · 侵攻を命じたミュンヘン会談AD1938年9月30日 · 仲介

本文

1883年7月29日、イタリア中部ロマーニャ地方の小村プレダッピオに生まれた。父は鍛冶屋で、熱心な社会主義者だった。息子にメキシコの革命家ベニート・フアレスの名を付けたのも父である。母は小学校の教師だった。少年時代は乱暴者で、寄宿学校で同級生をナイフで刺して問題になったこともある。

ベニート・ムッソリーニの肖像
ベニート・ムッソリーニの肖像Wikimedia Commons Public domain

師範学校を出て小学校の教師になったが長続きせず、19歳でスイスへ渡った。日雇い仕事をしながら社会主義の集会で演説し、警察に何度も捕まっている。イタリアへ戻ると社会党の活動家、そして新聞記者として頭角を現し、1912年には党の機関紙『アヴァンティ!』の編集長になった。演説も文章も短く、激しく、人を煽るのがうまかった。

転機は第一次世界大戦だった。社会党は戦争への中立を掲げていたが、ムッソリーニは参戦を主張しはじめた。1914年、党を除名される。すぐに自分の新聞『ポポロ・ディタリア』を創刊し、参戦論を唱えた。資金の一部はフランスなど参戦を望む側から出ていたとされる。イタリアが参戦すると自らも兵士として前線に立ち、1917年に演習中の事故で負傷して除隊した。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

戦争に勝ったものの、イタリアは期待した領土を得られず、「損なわれた勝利」という不満が広がった。物価は上がり、工場の占拠や農民の土地占拠が相次いだ。1919年3月、ミラノでムッソリーニは元兵士たちを集めて「戦闘ファッショ」を結成した。ファッショは「束」「結束」を意味し、古代ローマで権威の象徴とされた斧を束ねた棒(ファスケス)に通じる。ファシズムという呼び名は、この運動から生まれた。

当初は共和制や女性参政権まで掲げる雑多な綱領だったが、やがて社会主義者や労働組合を暴力で襲う集団に変わっていく。黒シャツを着た行動隊が組合事務所を焼き、活動家を棍棒で殴った。共産主義の革命を恐れる地主や工場主、それに警察や軍の一部までが、これを黙認し、支援した。

ガブリエーレ・ダンヌンツィオ
ガブリエーレ・ダンヌンツィオWikimedia Commons Unknown (Bain News Service, publisher) · Public domain

1922年10月、ファシストたちは首都へ向かって集結した。ローマ進軍である。政府は戒厳令を準備したが、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が署名を拒み、10月29日、ムッソリーニを首相に任命した。本人はミラノで成り行きを見守り、任命の電報を受けてから寝台列車でローマへ向かったとされる。武力で奪ったというより、既存の支配層が脅しに屈して政権を渡した形だった。39歳、当時のイタリアで最も若い首相である。

1924年、選挙の不正を議会で告発した社会党の議員マッテオッティが、ファシストに誘拐されて殺された。批判が高まり、政権は一時揺らいだが、ムッソリーニは翌1925年1月の議会演説で、事件の「政治的、道義的責任」は自分にあると開き直り、そのまま独裁へ進んだ。他の政党を禁じ、新聞を統制し、秘密警察を置いた。1929年にはローマ教皇庁とラテラノ条約を結び、ヴァチカン市国を認めて、統一以来の国家と教会の対立に区切りをつけた。

イル・ポポロ・ディターリア(イタリア語版)に掲載された「ファシストについての宣言」
イル・ポポロ・ディターリア(イタリア語版)に掲載された「ファシストについての宣言」Wikimedia Commons Members of Fasci Italiani di Combatimento · Public domain

その後の手本になったのが、ドイツのヒトラーである。ヒトラーが政権を取る11年前に、ムッソリーニは同じことをやってみせていた。ヒトラーの1923年のミュンヘン一揆は、ローマ進軍を真似たものとされる。

1935年、エチオピアに攻め込んだ(イタリアのエチオピア侵攻)。19世紀末にアドワで敗れた雪辱でもあった。戦いの中で、国際法で禁じられていた毒ガスを空から撒いた。皇帝は国際連盟で訴えたが(ハイレ・セラシエの国際連盟演説)、制裁は骨抜きに終わった。1936年、ムッソリーニは「ローマ帝国の再興」を宣言する。同じ年、スペイン内戦でフランコ側に大軍を送り、ドイツとの距離を縮めた。1938年にはユダヤ人を公職や学校から締め出す人種法を出した。

イタリア陸軍の突撃歩兵(アルディーティ)。退役兵の英雄であったアルディーティ兵たちはムッソリーニの重要な支持基盤であり、私兵組織黒シャツ隊の源流ともなった。
イタリア陸軍の突撃歩兵(アルディーティ)。退役兵の英雄であったアルディーティ兵たちはムッソリーニの重要な支持基盤であり、私兵組織黒シャツ隊の源流ともなった。Wikimedia Commons An unknown serviceman of the Regio Esercito · Public domain

1940年6月、フランスが崩れかけたのを見て、第二次世界大戦に参戦した。勝ち馬に乗るつもりだったが、ギリシアでも北アフリカでも敗れ、ドイツの助けを借りなければ戦線を保てなかった。1943年7月、連合軍がシチリアに上陸すると、ファシズム大評議会は彼の解任を求める動議を夜を徹して可決し、その日の午後、国王はムッソリーニを解任して逮捕させた。

9月、山中のホテルに幽閉されていたところを、ドイツの特殊部隊がグライダーで降りて救い出した。ムッソリーニは北イタリアのサロを拠点に、ドイツの傀儡にすぎないイタリア社会共和国を作った。娘婿で元外相のチャーノを、自分を裏切ったとして銃殺させたのもこの時期である。

ムッソリーニと行軍するミケーレ・ビアンキ党書記長および黒シャツ隊
ムッソリーニと行軍するミケーレ・ビアンキ党書記長および黒シャツ隊Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1945年4月、ドイツ兵に紛れてスイス方面へ逃れようとしたところを、コモ湖畔でパルチザンに見つかった。4月28日、愛人クララ・ペタッチとともに銃殺された。遺体はミラノのロレート広場に運ばれ、ガソリンスタンドの鉄骨に逆さに吊るされた。前年、同じ広場でパルチザン15人がファシストに処刑され、さらしものにされていた。

ムッソリーニが作った「指導者のもとに国民が一つにまとまる」という政治の型は、各地の独裁者に真似られた。イタリアでは戦後、ファシスト党の再建が憲法で禁じられたが、彼を懐かしむ人々は今もプレダッピオの墓に詣でている。

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