人物

ルース・ベネディクト

Ruth Benedict
AD1887年6月5日 – AD1948年9月17日(享年61)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

日本へ行かないまま、戦時情報局の依頼で日本人論を書いた文化人類学者。人種に優劣は無いと戦前から主張し続けた人でもある。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

『菊と刀』の刊行AD1946年 · 著者

本文

ルース・ベネディクトは1887年6月5日、ニューヨークに生まれた。旧姓はフルトン。外科医だった父は、彼女が2歳にならないうちに病で死んだ。母は夫の死を嘆き続け、毎年その命日には泣き崩れた。幼いルースはその姿を見て育ったと、後年の自伝的な断章に書いている。幼いころにかかった麻疹のために片方の耳がよく聞こえなくなり、人の輪から一歩引いて世界を眺める癖がついた、と本人は振り返っている。

ルース・ベネディクトの肖像
ルース・ベネディクトの肖像Wikimedia Commons World Telegram staff photographer · Public domain

ヴァッサー大学で英文学を学び、卒業後は社会事業の仕事をしたり、カリフォルニアの女子校で教えたりした。1914年に生化学者のスタンリー・ベネディクトと結婚したが、子どもはできず、結婚生活は次第に冷えていった。彼女は筆名で詩を書き、雑誌に発表していた。30歳を過ぎても、自分が何をする人間なのかが分からないまま過ごしていた。

転機は、ニューヨークの成人向けの学校で人類学の講座に出たことだった。1921年、コロンビア大学に移って、アメリカの人類学を築いたフランツ・ボアズのもとで学びはじめる。ボアズは、人種によって知能や文化の優劣が決まるという当時広く信じられていた考えを、測定と調査で崩そうとしていた。ベネディクトは1923年に博士号を取り、ボアズの右腕として大学で教えるようになった。アメリカ南西部のズニなど、先住民の村々へ調査にも出かけている。

1934年、ベネディクトは『文化の型』を出した。ニューメキシコのズニ、北米北西海岸のクワキウトル、メラネシアのドブという三つの社会を取り上げ、それぞれの文化が、人間の持つさまざまな可能性のうちの一部を選び取り、一つのまとまった型に作り上げていると論じた。ある社会で異常とされる振る舞いが、別の社会では尊ばれる。だから文化は、どれが進んでいるかで並べるものではない。この本はよく売れ、人類学を一般の読者に広めた。

ベネディクトはこの考えを、人種差別への反論に結びつけた。ナチス・ドイツが人種の純血を叫んでいた1940年、『人種 科学と政治』を書き、人種主義は科学ではなく近代の迷信だと論じた。1943年には同僚と共に、人種に優劣は無いと説く小冊子を書いたが、黒人と白人の知能の差を論じた箇所が南部の議員の怒りを買い、軍隊での配布が止められている。

1941年の真珠湾攻撃のあと、アメリカは戦う相手の国を理解する必要に迫られた。ベネディクトは1943年、戦時情報局に入り、敵国や占領地の文化の分析にあたった。1944年、日本の担当になる。戦争中のため、日本へ行くことはできなかった。彼女は、収容所や各地に暮らす日系人に聞き取りをし、日本の映画や小説、捕虜の尋問記録、それまでに出た日本についての本を読み込んで、報告書を書いた。日本人の降伏の受け入れ方や、天皇の扱いをどうすべきかという問いにも答えている。

真珠湾攻撃に関わる図版:Attack on Pearl Harbor Japanese planes view
真珠湾攻撃Wikimedia Commons Imperial Japanese Navy · Public domain

戦後、その報告書をもとに書いたのが、1946年の『菊と刀』である(『菊と刀』の刊行)。日本人は、恩と義理と義務の網の目の中に暮らし、世間の目を気にする「恥の文化」を持つ。西洋の内面の良心にもとづく「罪の文化」とは違う。菊を育てる美意識と、刀を崇める武の心が同じ人の中に同居している。この本は、占領下の日本の人びとがどう振る舞うかを読み解く手引きとして読まれた。

日本では1948年に翻訳が出て、大きな反響を呼んだ。一度も日本を訪れずに書かれた本が、日本人の自己像に長く影響を与えることになったのである。同時に、日本の学者たちからは強い批判も出た。一部の階層や時代の価値観を日本全体に当てはめている、恥と罪の区別は単純すぎる、という批判である。それでも、日本人論という書き物の原点の一つとして、この本はいまも読まれ続けている(物語「『菊と刀』で読む日本」)。

ベネディクトの私生活は、長く公にされなかった。夫とは1930年代に別居し、その後は女性の恋人と暮らした。教え子で、のちに著名な人類学者になったマーガレット・ミードとも、深い友情と恋愛の関係にあった。ミードは彼女の死後、残された日記や手紙、詩をまとめて一冊の本にし、その人柄と思索を世に伝えた。

1948年、コロンビア大学はようやくベネディクトを正教授に任じた。長年大学を支えてきた彼女にとって、遅すぎる昇進だった。その夏、ヨーロッパの国際会議に出かけた帰りに体調を崩し、9月17日、ニューヨークで心臓の病で死んだ。61歳だった。文化に優劣は無く、それぞれの型を内側から理解すべきだ、という彼女の主張は、のちの文化相対主義の考えの土台の一つになった。

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