人物

モントゴメリー

Bernard Montgomery
AD1887年11月17日 – AD1976年3月24日(享年88)
イギリス重要度 4

概要

「モンティ」。第一次大戦で肺を撃たれた。1942年、第8軍。エル・アラメイン。シチリア、イタリア、ノルマンディーの地上軍を指揮した。マーケット・ガーデンで失敗した。傲慢でアイゼンハワーと衝突し続けた。ベレー帽。禁酒禁煙。「戦争は準備で勝つ」。

関わったできごと(1)

エル・アラメインの戦いAD1942年10月23日 · 勝った

本文

バーナード・モントゴメリーは1887年、ロンドンのケニントンで生まれた。父のヘンリーは聖公会の牧師で、モントゴメリーが2歳のときタスマニアの主教に任じられ、一家は十年あまりをオーストラリアの南の島で過ごした。母のモードは厳しく、子どもたちをたびたび鞭で打った。モントゴメリーは晩年まで母を許さず、母の葬儀にも出なかった。のちに部下や同僚が手を焼いた頑なさと、人に頭を下げない性格の根を、この幼年期に見る伝記作家は多い。

陸軍士官学校を出て、1908年に歩兵連隊の少尉になった。第一次世界大戦が始まった1914年10月、フランス北部のメテレン村で狙撃兵に胸を撃たれ、片方の肺を貫かれた。助けに来た兵士も撃たれて彼の上に倒れ、その体が盾になったという。一時は助からないとみられ、墓まで掘られたと伝えられる。命をとりとめたのちは参謀として西部戦線にとどまり、ソンムの戦いのような消耗戦を内側から見た。準備のない攻撃で兵を無駄に死なせないという後年の信条は、ここから来ている。

ソンムの戦いに関わる図版:Map of the Battle of the Somme, 1916
ソンムの戦いWikimedia Commons SVG version, and changes : Grandiose Original map : Worldwari map13 largerview.jpg , US Military Inset map : Giro720 , F · Public domain

1927年、戦争で夫を亡くしたベティ・カーヴァーと結婚し、息子が生まれた。1937年、ベティは海辺で虫に刺された傷から敗血症になり、急死した。モントゴメリーは打ちのめされ、以後は再婚せず、仕事だけに打ち込んだ。

第二次世界大戦の初め、彼は第3師団を率いてフランスに渡り、1940年のダンケルクの撤退で部隊を損害少なく引き揚げさせて名を上げた。転機は1942年8月である。北アフリカでは、イギリス第8軍がロンメルのドイツ・イタリア軍に押され、エジプトのアラメインまで退いていた。後任の司令官に予定された将軍が乗った飛行機が撃墜され、代わりにモントゴメリーが送り込まれた。彼は着任すると、これ以上は一歩も退かないと宣言し、退却の計画を破り捨てさせた。指揮車にロンメルの写真を貼り、相手の考えを読もうとしたという。

ダンケルクの撤退に関わる図版:Dunkirk 26-29 May 1940 NYP68075
ダンケルクの撤退Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

9月のアラム・ハルファでロンメルの攻勢を止め、兵力と補給が十分にそろうのを待って、10月23日に攻勢に出た(エル・アラメインの戦い)。十日あまりの激戦の末に枢軸軍は崩れ、西へ退いた。それまで負け続けていたイギリス軍の初めての大きな勝利で、チャーチルはのちに、アラメイン以前に勝利はなく、以後に敗北はなかった、という意味のことを書いている。

1943年、シチリア島への上陸ではアメリカのパットンと並んで軍を率い、どちらが先にメッシナに入るかを競う形になった。続いてイタリア本土へ渡ったのち、年末にイギリスへ呼び戻され、翌年6月のノルマンディー上陸作戦で地上軍全体の指揮をとった。上陸は成功したが、初日に取る予定だったカーンの町を落とすのに一か月以上かかり、アメリカ側の不満がたまった。9月、連合軍最高司令官のアイゼンハワーが地上軍の指揮を自ら引き取り、モントゴメリーは同じ日に元帥に昇進した。

バーナード・モントゴメリーの肖像(1944年)
バーナード・モントゴメリーの肖像(1944年)Wikimedia Commons Edward George William Malindine · Public domain

その9月、彼は自ら発案した大胆な作戦に打って出る。マーケット・ガーデン作戦である。空挺部隊でオランダの橋をいくつも押さえ、地上部隊が一気にライン川を越えてドイツへ入るという計画だったが、最も奥のアルンヘムの橋を取りきれず、イギリスの空挺師団は大きな損害を出して退いた。慎重さで知られた将軍の、最大の失敗になった。

12月、ドイツ軍がアルデンヌで反撃に出ると(バルジの戦い)、彼は突出部の北側の米軍を一時指揮した。年が明けて開いた記者会見で、自分が戦いを立て直したかのような話しぶりをし、アメリカの将軍たちを激怒させた。その少し前には地上軍の指揮権を自分に戻すよう求め、アイゼンハワーが彼か自分かを本国に選ばせる構えを見せたため、参謀長に説かれて詫び状を書いている。1945年5月4日、北ドイツのリューネブルク荒野で、オランダ・デンマーク・ドイツ北西部のドイツ軍の降伏を受けた。

バルジの戦いに関わる図版:117th Infantry North Carolina NG at St. Vith 1945
バルジの戦いWikimedia Commons U.S. Army · Public domain

戦後は「アラメインのモントゴメリー子爵」となり、陸軍参謀総長を務め、NATOの結成ののちは欧州連合軍の副司令官を長く務めた。1958年の回想録でアイゼンハワーの戦争指導を批判し、すでに大統領だったかつての上官との間はほぼ絶えた。

酒も煙草もやらず、自分の作戦会議では喫煙を禁じた。トレードマークの黒いベレー帽は戦車兵のもので、兵士たちに自分の顔を覚えさせるためにかぶり続けた。前線を回って兵に直接語りかけ、イギリスの兵士と国民には「モンティ」の愛称で慕われた。一方で、手柄を独り占めする傲慢な男として、アメリカの将軍たちには最後まで嫌われた。

スキポール空港を発つモントゴメリー元帥
スキポール空港を発つモントゴメリー元帥Wikimedia Commons Harry Pot / Anefo · CC0

1976年3月24日、イングランド南部の自宅で死んだ。88歳。ロンドンのホワイトホールには、ベレー帽をかぶった彼の像が立っている。

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