概要
1933年に政権を握ったヒトラーは、全国に自動車専用の高速道路網を造る計画を打ち出し、その年の9月、フランクフルトで自ら最初の鍬を入れた。1935年5月19日、フランクフルトとダルムシュタットの間の最初の区間が開通した。交差点も信号も無く、上りと下りが分けられた道は、国民に車の時代を約束する宣伝の道具になり、国民車フォルクスワーゲンの計画とも結びついた。失業をなくすための事業と宣伝されたが、雇われた人の数は限られ、のちには捕虜や強制労働も使われた。高速道路の考え方自体は、ナチより前からイタリアやドイツにあった。
場所
50.11°N 8.68°E · ドイツ・ヘッセン州
本文
自動車だけが走る、交差点の無い道路の考えは、ナチより前からあった。イタリアでは1924年に、ミラノと湖水地方を結ぶ有料の自動車道路アウトストラーダが開通した。ドイツでも、1920年代に自動車道路を造る協会が作られ、1932年には、ケルン市長アデナウアーのもとで、ケルンとボンの間に交差点の無い自動車道路が開通していた。ナチ党は当初、こうした計画を金持ちのための道路だとして反対していた。
1933年に政権を握ると、ヒトラーは態度を一変させた。彼は、全国を結ぶ自動車専用の高速道路網「帝国アウトバーン」の建設を、国の大事業として打ち出した。技術者フリッツ・トートが総監に任じられた。9月23日、フランクフルトの近くで、ヒトラー自らシャベルで最初の土を掘る式典が開かれ、新聞と映画がそれを大きく伝えた。
1935年5月19日、フランクフルトとダルムシュタットの間の最初の区間が開通した。上りと下りの車線は分けられ、交差点も信号も無く、ゆるやかな曲線で丘や森を抜けていく。道路は、ドイツの風景を見せるように設計され、橋や休憩所も美しく造られた。開通した道は、ナチの宣伝の格好の舞台になり、ヒトラーは、すべての家族が車を持てる時代を約束して、国民車フォルクスワーゲンの計画を進めた。
アウトバーンは、失業をなくす事業として宣伝された。だが実際に建設の現場で働いた人は、多い年でも十数万人で、失業の減少の多くは再軍備によるものだった。工事は機械より人の手に頼り、労働の条件は厳しかった。戦争が始まると、工事には戦争の捕虜や強制労働の人々が使われた。1942年に工事が止まるまでに、およそ3800キロが完成していた。当時のドイツでは車を持つ人は少なく、道路はがらがらだった。軍の移動に役立つともいわれたが、実際には軍の物資の多くは鉄道で運ばれた。
戦後、西ドイツはアウトバーンの網を広げ、速度の上限の無い区間を持つ道路として知られるようになった。「ヒトラーはアウトバーンを造った」という言葉は、ナチの時代にも良いことがあったという言い訳として長く語られてきたが、歴史家たちは、その多くが宣伝の作り話だったことを明らかにしている。アメリカのアイゼンハワーは、戦争中にアウトバーンを見て感銘を受け、のちに州間高速道路の建設を進めた(州間高速道路)。