ナチスの政権掌握

概要
選挙を経て合法的に政権を取り、そこから独裁へ移した。民主制が自ら独裁を選びうると示した例。
場所
52.52°N 13.40°E · ドイツ
関わった人(1)
ヒトラーAD1889年4月20日–AD1945年4月30日 · 当人本文
第一次世界大戦に敗れたドイツでは、1919年にヴァイマル憲法が定められ、男女の普通選挙と議会制を備えた共和国が生まれた。しかし出発から重荷を負っていた。ヴェルサイユ条約で領土と植民地を失い、巨額の賠償を課され、戦争の責任を負わされた。軍の一部や保守派は「前線では負けていなかった、国内で裏切られた」と語り、共和国を敵視した。
1923年にはドイツのハイパーインフレで貨幣の価値が崩れ、蓄えを失った中間層が多く出た。同じ年、ヒトラーはミュンヘンで武装蜂起を企てて失敗し、投獄された。ミュンヘン一揆の後、ヒトラーは力ずくではなく選挙で権力を取る道を選ぶ。獄中で口述した『わが闘争』には、ユダヤ人への憎しみと、東方に生存圏を求める考えが書かれていた。
1920年代の半ばには経済が持ち直し、ナチ党は1928年の選挙で2.6%しか得票できなかった。流れを変えたのは1929年の世界恐慌だった。失業者は600万人に達した。1930年の選挙でナチ党は18.3%を得て第二党に躍り出た。議会では多数派を作れず、大統領ヒンデンブルクが議会を通さずに緊急令で政治を進める状態が続いた。

1932年7月の選挙で、ナチ党は37.3%を得て第一党になった。過半数ではない。11月の選挙では33.1%に減った。共産党も伸びていた。首相のパーペンとシュライヒャーはいずれも議会の支持を得られなかった。保守派の政治家たちは、大衆の支持を持つヒトラーを首相にし、自分たちが周りを固めれば抑え込めると考えた。パーペンは「彼を隅に追い詰めてやる」と語ったと伝えられる。
ナチ党に票を入れたのは、失業者だけではなかった。農村のプロテスタント、商店主や職人などの中間層、そして若い有権者のあいだで特に支持が伸びたとされる。党は映画やラジオ、大規模な集会を使った新しい宣伝で人を集め、一方で突撃隊が街頭で共産党員と衝突を繰り返した。左派の側では、社会民主党と共産党が互いを敵とみなし、手を組めなかった。

1933年1月30日、ヒンデンブルクはヒトラーを首相に任命した。内閣の閣僚のうちナチ党員はヒトラーを含め3人だけで、残りは保守派だった。それでも、警察を動かせる地位をナチ党が押さえていた。前年の大統領選挙では、ヒトラーは決選投票で約37%を得て、現職のヒンデンブルクに敗れていた。そのヒンデンブルクが、いまや自らヒトラーに政権を委ねたのである。
2月27日、ベルリンの国会議事堂が燃えた。国会議事堂放火事件である。オランダ人の青年が現場で捕まり、ナチ党は共産党の蜂起の始まりだと主張した。翌日、大統領の緊急令が出され、言論・集会・結社の自由や通信の秘密といった基本的な権利が停止された。共産党員や社会民主党員が次々に逮捕され、急ごしらえの収容所に送られた。放火が単独犯だったのか、ナチ党が関わったのかは、いまも議論が続いている。

3月5日の選挙は、こうした弾圧の中で行われた。それでもナチ党の得票は43.9%で、単独で過半数には届かなかった。
3月23日、議会は全権委任法を可決した。政府が議会を通さずに法律を作ることができ、その法律は憲法に反してもよい、という内容である。憲法を変えるのと同じ3分の2の賛成が必要だった。共産党の議員はすでに逮捕されるか逃れていて、出席できなかった。カトリックの中央党などは賛成に回った。反対したのは社会民主党の94人だけだった。党首のヴェルスは、自由と命は奪えても名誉は奪えない、と演説して反対した。

その後の動きは速かった。5月には労働組合が解散させられ、7月には新しい政党を作ることが禁じられて、ナチ党だけが残った。
各州の政府もナチ党の手に移され、役所や大学からはユダヤ人と政敵が追われた。5月10日にはベルリンなどの大学町で、ユダヤ人や左派の作家の本が学生たちの手で燃やされた。社会のあらゆる組織をナチ党の方針にそろえることは「均制化」と呼ばれた。1934年6月30日、ヒトラーは党の突撃隊の幹部や政敵を一斉に殺させた。「長いナイフの夜」と呼ばれる。8月2日にヒンデンブルクが死ぬと、首相と大統領の地位を一つにして「総統」となり、軍には自分個人への忠誠を誓わせた。首相就任から1年半で、独裁は完成した。
この過程は「合法的な権力掌握」と呼ばれる。たしかに大がかりなクーデターは無かった。しかしナチ党は自由な選挙で一度も過半数を取っていない。緊急令と暴力、そして保守派や他党の協力が、それを補った。その先には、ニュルンベルク法、水晶の夜、そしてホロコーストが続いていく。

戦後の西ドイツは、この経験から憲法を組み立てた。人間の尊厳と民主制の原則は改正できないと定め、憲法の秩序を壊そうとする政党は禁止できるとした。首相を辞めさせるには後任を同時に選ばなければならない仕組みも入れた。民主制は自らを守る仕組みを持たなければ、自らの手続きで独裁を選びうる。その教訓が、ここに込められている。