エル・アラメインの戦い

概要
ロンメルはカイロの100キロ手前で止まっていた。モントゴメリーが2倍の兵と戦車と、900門の砲で12日押した。ロンメルは退いた。「これは終わりではない。終わりの始まりでもない。だが始まりの終わりかもしれない」。アフリカの戦いが北へ向きを変えた。
場所
30.83°N 28.95°E · エジプト
関わった人(2)
モントゴメリーAD1887年11月17日–AD1976年3月24日 · 勝ったロンメルAD1891年11月15日–AD1944年10月14日 · 退いた本文
1940年の秋、イタリア軍がリビアからエジプトへ攻め込んで、北アフリカの戦いが始まった。イギリス軍に押し返されたイタリアを助けるため、1941年2月、ドイツはロンメルと「アフリカ軍団」を送った。以後、両軍は地中海の岸に沿った細長い砂漠を、何度も行きつ戻りつした。勝負を決めたのは補給だった。前に出るほど港から遠くなり、燃料と弾が届かなくなる。
1942年6月21日、リビアの港トブルクが落ち、3万3000人ほどの英連邦の兵が捕虜になった。チャーチルはこのとき、ワシントンでローズヴェルト大統領と会っていて、知らせを聞いた。彼はのちに、敗北と恥辱とは別のものだと書いている。ロンメルはこの勝利で元帥になり、エジプトへなだれ込んだ。

イギリス軍が踏みとどまったのは、アレクサンドリアの西100キロほどの小さな駅のある所、エル・アラメインだった。北は地中海、南へ60キロほど行くと、車が通れない窪地カッターラ低地がある。砂漠の戦いでいつも勝負を決めてきた、南から回り込む動きが、ここではできなかった。7月、司令官オーキンレックはここでロンメルを止めた。これは第一次エル・アラメインの戦いと呼ばれる。
8月、チャーチルはカイロへ飛び、指揮官を入れ替えた。第8軍の司令官に予定したゴットが、乗った輸送機を撃ち落とされて死に、代わりにモントゴメリーが着任した。8月の末、ロンメルはアラム・ハルファの尾根で最後の攻勢をかけたが、燃料が足りず、待ち構えていたイギリス軍に止められた。モントゴメリーは、勝てるだけの準備が整うまでは攻めないと言い張り、早く攻めろと急かすチャーチルを待たせた。

10月の半ば、連合軍は兵19万あまり、戦車1000両あまりを揃えていた。対する独伊軍は兵11万あまり、戦車は500両あまりで、その半分ほどは非力なイタリアの戦車だった。アメリカから届いたシャーマン戦車も加わっていた。ドイツの暗号を解いた情報(エニグマの解読)で、地中海を渡るロンメルへの補給船は次々に沈められ、燃料は底をつきかけていた。イギリス軍は「ベルトラム作戦」と名づけた偽装で、南に木と布の偽の戦車や偽の補給管を並べ、本物の戦車は北に隠した。ロンメルは病気でドイツに帰って療養しており、代わりの将軍シュトゥンメが指揮をとっていた。
1942年10月23日の夜9時40分、およそ900門の大砲がいっせいに火を吹いた。歩兵と工兵は、独伊軍が「悪魔の園」と呼んだ地雷原の中に、戦車の通る道を切り開いていった。作戦の名は「ライトフット」(軽い足取り)だった。だが道は狭く、進みは遅かった。翌日、前線へ出たシュトゥンメは砲火を浴びて車から落ち、心臓の発作で死んだ。ロンメルは25日の夜に戻ってきた。そこから1週間あまり、両軍は地雷原の中で消耗戦を続けた。

11月2日、モントゴメリーは「スーパーチャージ」と名づけた新しい突破を始めた。独伊軍の戦車はみるみる減り、11月3日、ロンメルは退くことを決めた。そこへヒトラーから、一歩も退かず、勝利か死かを兵に示せという命令が届いた。ロンメルは一日ためらったのち、11月4日に退却を始めた。車の少ないイタリア軍の歩兵の多くは、砂漠に取り残されて捕虜になった。連合軍の死傷者は1万3000人ほど、独伊軍は3万人ほどが捕虜になったとされる。
11月8日、アメリカ軍とイギリス軍がモロッコとアルジェリアに上陸した。西からも挟まれた独伊軍は、1943年5月、チュニジアで降伏し、25万人ほどが捕虜になった。11月10日、チャーチルはロンドンでの演説で、これは終わりではない、終わりの始まりでさえない、だがおそらく始まりの終わりである、と述べた。15日の日曜には、戦争が始まってから侵攻の合図にとっておくため鳴らされていなかったイギリス中の教会の鐘が、勝利を祝って鳴らされた。
チャーチルはのちに回想録で、アラメインの前に勝利はなく、アラメインの後に敗北はなかった、と書いた。ほぼ同じころ、ソ連軍はスターリングラードの戦いでドイツ軍を包囲しつつあった。戦争の流れが変わった秋だった。ただし、勝敗を決めたのは将軍の腕よりも、補給と数の差だったという見方は根強い。アメリカの物量が本格的に加わる直前の、イギリスが主役を務めた最後の大きな勝利でもあった。

いまエル・アラメインには、英連邦、ドイツ、イタリアの戦死者の墓地が並んでいる。イタリアの記念の地には、欠けていたのは運であって、勇気ではなかった、という言葉が刻まれている。