できごと

張作霖爆殺事件

Assassination of Zhang Zuolin
AD1928年6月4日
重要度 5
張作霖爆殺事件に関わる図版:Zhang zuolin
Zhang zuolin Wikimedia Commons carpkazu · Public domain

概要

蒋介石の北伐に負けて北京から奉天へ戻る列車を、関東軍の河本大作大佐が、南満洲鉄道との交差点で爆破した。満洲の軍閥を、日本が自分で殺した。田中義一首相は昭和天皇に処分を約束して、できず、天皇に叱られて辞めた。息子の張学良は国民政府についた(易幟)。3年後、柳条湖。

場所

奉天(瀋陽)
41.81°N 123.43°E · 中国・遼寧省

関わった人(1)

張作霖AD1875年3月19日–AD1928年6月4日 · 殺された

本文

1928年6月4日の明け方、北京から奉天(今の瀋陽)へ向かう特別列車が、奉天の西の皇姑屯の近くで爆破された。乗っていたのは、満洲を支配し、北京で中華民国の元首を名乗っていた軍閥の首領張作霖である。張作霖はその日のうちに死んだ。仕掛けたのは日本の関東軍の参謀だった。日本は、自分たちが長年後押ししてきた満洲の支配者を、自らの手で殺したのである。

張作霖は馬賊の出身で、日露戦争のころから満洲で力を蓄え、辛亥革命後の混乱の中で奉天を拠点とする軍閥にのし上がった。1924年には北京の政権を争う戦争に勝って中央の政治にも乗り出し、1927年6月には北京で「安国軍大元帥」に就いて、自ら政府の頂点に立った。日本は、日露戦争で手に入れた南満洲鉄道と遼東半島の関東州という満洲の権益を守るため、張作霖を支えてきた。だが張作霖は日本を利用しながら、言いなりにはならなかった。満鉄と競合する鉄道を自分で敷き、日本の利権を少しずつ削ろうとした。関東軍の中には、張作霖はもはや役に立たない、という不満が広がっていた。

張作霖が乗車していた列車
張作霖が乗車していた列車Wikimedia Commons AQu01rius · Public domain

1926年、南の広州から、蒋介石が率いる国民革命軍が、中国の統一を掲げて北へ攻め上る北伐を始めた。一時中断ののち1928年4月に再開された北伐は、6月には北京に迫った。張作霖は北京を捨てて本拠地の満洲に戻ることを決め、6月3日の夜、特別列車で北京を発った。日本政府は、張作霖を満洲に戻して国民革命軍が満洲に入るのを防ぐ方針で、張作霖にもそう勧めていた。

関東軍の高級参謀、河本大作大佐は、これとは別の筋書きを描いていた。張作霖を殺して満洲を混乱に陥れれば、それを口実に関東軍が出動し、満洲を一気に押さえられる、と考えたのである。関東軍司令官の村岡長太郎がどこまで知っていたかについては、別の暗殺の計画を持っていた村岡の意を河本が汲んだという見方もあり、はっきりしない部分が残る。

爆破箇所における現場検証(交差していた鉄橋は崩落している)
爆破箇所における現場検証(交差していた鉄橋は崩落している)Wikimedia Commons 不詳(file by Carpkazu) · Public domain

6月4日午前5時23分ごろ、張作霖の乗った車両が、北京と奉天を結ぶ京奉線が満鉄の線路の下をくぐる立体交差に差しかかったとき、満鉄の鉄橋に仕掛けられていた爆薬が爆発した。爆薬を仕掛け、点火したのは、満鉄沿線を守る独立守備隊の将校らだった。車両は崩れ落ちた鉄橋の下敷きになり、重傷を負った張作霖は奉天の邸に運ばれたが、まもなく息を引き取った。同乗していた黒竜江省の軍の長、呉俊陞も死んだ。

関東軍は、これを国民党の便衣兵の仕業に見せかけようとした。現場の近くに中国人の男たちを連れて来て殺し、犯人として遺体を置いたのである。だが連れて来られた者のうち1人が逃げ出し、張作霖の側に事情を伝えたとされる。中国側も、日本の外交官たちも、多くの者がすぐに関東軍の関与を疑った。

上は連京線
上は連京線Wikimedia Commons Fumihiko Ueno · CC BY 3.0

河本の思惑は外れた。奉天の張作霖の側近たちは父の死を伏せ、混乱を起こさなかった。関東軍が出動する口実は生まれなかった。後を継いだのは27歳の長男、張学良だった。張学良は父の死を2週間ほど隠したまま奉天に戻って実権を固め、この年の12月29日、満洲じゅうの旗を中華民国の旧来の五色旗から国民党の青天白日満地紅旗に掛け替えた。「易幟」と呼ばれるこの決断で、満洲は南京の国民政府に従うことになった。日本の望んだこととは、正反対の結果だった。

東京では、事件の処理が政治の大問題になった。日本国内の新聞は詳しいことを書けず、事件は「満洲某重大事件」とだけ呼ばれた。田中義一首相は当初、事件が日本の軍人の仕業であれば厳重に処分すると昭和天皇に申し上げた。ところが陸軍と与党の政友会の中から、真相を明らかにすれば日本の国際的な立場を損なうという強い反対が出た。田中は結局、1929年6月、関係者を軍の内部の処分で済ませると上奏し直した。天皇は、前の話と違うではないか、と強く叱責したと伝えられる。田中内閣は翌7月に総辞職し、田中はその年の9月に死んだ。河本は停職ののち予備役に回されただけで、軍法会議にはかけられなかった。

1928年6月4日、張作霖爆殺事件
1928年6月4日、張作霖爆殺事件Wikimedia Commons Sweeper tamonten ( talk ) · Public domain

昭和天皇は戦後の回想で、このとき首相を叱ったのは若気の至りだったと振り返り、それ以後は、内閣の上奏する案には、自分の意見と違っても裁可を与えることにしたと語っている(『昭和天皇独白録』)。首相を辞職に追い込んだ経験が、天皇がその後の政治で自分の意思を表に出すことを控える一因になったとされる。

事件のもう一つの帰結は、軍人の独断が、真相を伏せられたまま、ほとんど罰せられずに終わったことである。現地の軍が政府の方針を無視して大事を起こしても、重く問われることはない。その前例は、満洲の関東軍に引き継がれた。3年後の1931年9月、同じ関東軍の参謀、石原莞爾と板垣征四郎らは、奉天の郊外の柳条湖で満鉄の線路を自ら爆破し、それを中国軍の仕業として軍事行動を起こした(満洲事変)。今度は関東軍は一気に満洲全土を制圧し、翌年には満洲国が作られた。

満洲事変に関わる図版:Mukden 1931 japan shenyang
満洲事変Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

父を日本に殺された張学良は、満洲を追われたのちも抗日の立場を強め、1936年には蒋介石を監禁して共産党との内戦の停止を迫った(西安事件)。それは翌年の日中戦争へとつながっていく。近年、この爆殺にはソ連の情報機関が関わっていたとする説も唱えられたが、確かな根拠に乏しいとして、研究者の多くは関東軍の河本らによる犯行という見方を変えていない。皇姑屯の爆破は、日本の軍が政府の手を離れて大陸で動き始める、最初の大きな一歩だった。

動画(1)

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