できごと

第一次世界大戦

First World War
1914年 – 1918年
期間を持つできごと重要度 5
第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
Bataille de Verdun 1916 Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

概要

サラエヴォの一発から、同盟の連鎖で世界が巻き込まれた。塹壕と機関銃と毒ガスで1000万人が死ぬ。

場所

サラエヴォ
43.86°N 18.41°E · ボスニア・ヘルツェゴビナ

本文

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、ボスニアの町サラエヴォを訪れた。ボスニアは数年前にオーストリアに併合されたばかりで、隣のセルビアとの統合を望む若者たちがいた。車の列が道を間違えて止まったとき、19歳のボスニア系セルビア人の青年プリンツィプが拳銃を撃ち、大公夫妻は死んだ。

それから6週間で、ヨーロッパの主な国がすべて戦争に入った。オーストリアは7月23日、セルビアに厳しい最後通牒を突きつけ、28日に宣戦した。セルビアの後ろ盾のロシアが軍の動員を始めると、オーストリアと同盟を結ぶドイツはロシアとフランスに宣戦した。ドイツが中立国ベルギーを通ってフランスへ攻め込むと、イギリスもドイツに宣戦した。8月の初めには、二国のあいだの紛争が、大陸全体の戦争に広がっていた。

WWImontage
Wikimedia Commons User:Hohum · Public domain

なぜこうなったのか。ヨーロッパの大国は、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟と、フランス、ロシア、イギリスの三国協商という二つの陣営に分かれていた。ドイツとイギリスはドレッドノートの進水に始まる巨大な戦艦の建造を競い、各国の軍は、いったん動員を始めたら止められない精密な作戦計画を持っていた。バルカン半島では、オスマン帝国の衰えにつけこんで民族主義が燃え上がっていた。どの国の指導者も、自分が守りの立場にあると考えていた。

誰もが短い戦争になると思っていた。クリスマスまでには帰れると言って、兵士たちは出征した。ドイツ軍はパリに迫ったが、9月のマルヌの戦いで止められた。その後、両軍は互いの側面を回り込もうとして北へ延び、やがて北海からスイスの国境まで、700キロ以上にわたって塹壕の線が続いた。この西部戦線は、その後4年近く、ほとんど動かなかった。

マルヌの戦いに関わる図版:German soldiers Battle of Marne WWI
マルヌの戦いWikimedia Commons German Army · Public domain

塹壕の戦いでは、守るほうが圧倒的に有利だった。鉄条網と機関銃に守られた敵の塹壕に向かって突撃すれば、兵は次々に倒れた。1916年、ドイツ軍はフランスのヴェルダンの要塞を攻め、10か月に及ぶ戦いで両軍に数十万の死傷者が出た。同じ年のソンムの戦いでは、イギリス軍は初日だけで約2万人の戦死者を出した。

膠着を破るため、新しい兵器が次々に持ち込まれた。1915年のイーペルの毒ガスで、ドイツ軍は塩素ガスを使った。イギリス軍は1916年に戦車を戦場に出した。航空機は偵察から始まり、やがて空中戦と爆撃に使われるようになった。海では、ドイツの潜水艦が商船を沈めた。1915年のルシタニア号の撃沈では、多くのアメリカ人の乗客も死んだ。

戦場はヨーロッパの外にも広がった。オスマン帝国はドイツの側について参戦し、イギリスなどは1915年、ダーダネルス海峡を押さえるためにガリポリの戦いを行って失敗した。中東では、イギリスがアラブの反乱を後押しする一方で、フランスとはオスマン帝国の領土を分け合うサイクス・ピコ協定を結んでいた。オスマン帝国の中では、アルメニア人虐殺が起きた。日本はイギリスとの同盟を理由に参戦し、中国の青島や太平洋のドイツ領の島々を奪った。イギリスやフランスの植民地からも、数多くの兵士や労働者が戦場に送られた。

ガリポリの戦いに関わる図版:G.C. 18 March 1915 Gallipoli Campaign Article
ガリポリの戦いWikimedia Commons LoudHmen · Public domain

国の中の暮らしも一変した。男たちが戦場へ出たあとの工場や畑では、女性が働いた。食べ物は配給になり、新聞は検閲された。戦争は軍隊だけでなく、国の経済と人々の全部を注ぎ込む総力戦になった。

1917年、戦争の形が変わった。ロシアでは戦争の負担に耐えかねた人々が立ち上がり、ロシア革命で帝政が倒れた。権力を握ったレーニンらは、翌年ドイツとブレスト・リトフスク条約を結んで戦争から抜けた。同じ1917年、ドイツが潜水艦で無差別に船を沈める作戦を始めたことなどから、アメリカが参戦した。

ロシア革命に関わる図版:Митинг на Невском проспекте (1917)
ロシア革命Wikimedia Commons unknown; photo retake by George Shuklin · Public domain

1918年の春、ドイツは東から移した兵力で最後の大攻勢をかけたが、突破できなかった。夏からは、アメリカの兵が加わった連合国が押し返した。ドイツの国内では水兵の反乱から革命が起き、皇帝は退位してオランダへ逃れた。11月11日、休戦協定が結ばれた。

戦死した兵士は900万人を超え、民間人も数百万人が死んだとされる。さらに、終わりかけの1918年から、スペイン風邪と呼ばれるインフルエンザが世界中に広がった。死者の推計は2000万から5000万、あるいはそれ以上とされ、戦争そのものより多くの人が死んだ。

スペイン風邪に関わる図版:Emergency hospital during Influenza epidemic, Camp Funston, Kansas - NCP 1603
スペイン風邪Wikimedia Commons Otis Historical Archives, National Museum of Health and Medicine · Public domain

戦争の後、四つの帝国が消えた。ロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、そしてオスマン帝国である。東ヨーロッパにはポーランドやチェコスロヴァキアなどの新しい国が生まれ、中東は英仏の支配のもとで線を引かれた。敗れたドイツにはヴェルサイユ条約が課され、その恨みは次の大戦の種になった。二度と戦争を起こさないための仕組みとして国際連盟が作られたが、アメリカは加わらなかった。このとき引かれた国境の多くが、いまも紛争の場所になっている。

動画(3)

152 第一次世界大戦 世界史20話プロジェクト第15話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第152講「第一次世界大戦」
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Archdukes, Cynicism, and World War I: Crash Course World History #36CrashCourse暗殺が原因ではなく引き金だったこと、同盟の連鎖の形が短くまとまっている

出典(5)

スティーブン・ピンカー(幾島幸子、塩原通緒 訳) 『暴力の人類史』第5章 長い平和
ウィリアム・H・マクニール(増田義郎、佐々木昭夫 訳) 『世界史』第IV部 地球規模のコスモポリタニズムの始まり(1850年〜)
ベネディクト・アンダーソン(白石隆、白石さや 訳) 『想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』第7章 最後の波(帝国が国民国家に割れる)
イマニュエル・ウォーラーステイン(川北稔 訳) 『近代世界システム』第IV巻(イギリスからアメリカへ)
ウォルター・シャイデル(鬼澤忍、塩原通緒 訳) 『暴力と不平等の人類史 戦争・革命・崩壊・疫病』第2部(総力戦という平等化)

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